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これ自分じゃん…ってなる本

小説と現実の境界線は
思ったよりも曖昧。


というのも、こないだ『火花』を読みました。

ちょっと前に芥川賞を受賞した作品ですね。

9年前ってちょっと前なのか?

しばらく小説なんて読んでいなかったんだけど、

五感をくすぐる描写

細かな感情の動き

架空の話なのにどこか無視できない危うさ

に心を奪われ、読んでよかった、面白かった、
と思いました。

そしてなにより、
それを紡ぐ又吉直樹という人物に惹かれました。

そうなると他の作品、
とりわけエッセイが気になる。

ということですぐに
『東京百景』と『月と散文』を購入。

エッセイってその人なりの世界の見方とか、
普段の思考を垣間見る
ことができて良くない?

知らない人のエッセイより、
好きな人のエッセイを読みたくなるのって
それが理由かな。

なんて思ったりもして。


先に『東京百景』を読んでいるのだけれど、
百景のうち、四十一景まで読み終えたところ。

一つ前の四十景に「ベージュのコーデュロイパンツ」の話が出てきた。

未読の人、なんのこっちゃって感じですよね。

僕なりに要約すると、

お世話になっている先輩にベージュのコーデュロイパンツはダサいって熱く語った直後、先輩の家にそれがあると気づく。

とりあえず気遣った発言をしてみるも、先輩は先輩でなんか言い訳しはじめてる。なんだかどっちもやるせない気持ちになる、そんなお話。


『火花』にあったな、このやり取り。


そう、小説と現実の境界線は思ったよりも曖昧。


又吉さんに大きく影響を与えたであろう太宰治の『人間失格』。

この作品にも随所にそうした境界線のぼやけた部分があります。

この話がもとになっているのかと小さく感動するとともに、見てはいけない制作秘話をのぞき込んでしまった感覚。

作品内の出来事と現実とが地続きになっていて、
いつかは自分も…というような漠然とした恐怖を感じる。

そしてそんな生身の恐怖があるからこそ、
笑いも、感動も、幸せも、より一層感じられる。


小説と現実と、作者と自分との境界線がぼやけて、一つのかたまりになる。

究極の読書体験がそこにはある。

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みそみんみ
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