どーも、毒の芽持ちの私です。
もしや私は毒沼出身?
たっつんやおチビさんと時にキャッキャッしつつ、時にぶつかりつつ自分を振り返りながら日々を重ねていると。
なんていうか…だんだん…だーんだんもしかして?と感じてきたことがある。
でも、それを口に出してしまえばまた視点がガラッと変わりそうで、『いやいや、話に聞いた程では無いし…』とか、『それぞれが必死にやってきただけ…それだけなはず…』と思おうとしたけど。
自分が育ってきた環境や、幼い自分がどう扱われて、どんな教育を受けてきたかを思い出せば思い出す程に…。
そして、たっつんに出会って家を出るまでの生きてきた環境が自分の中に根付いて私に残してきたものを今振り返って1つ1つ整理して身軽になる程に…。
もしかして私ってなかなかの毒環境で生き抜いてきたのでは?と思い始めてきた。
それも私のされてきたことを考えると、その環境に生きる人が自分達の生きているこの環境が普通!と問題を全く問題視しない程の毒沼どっぷりぶりだったのでは???
みのりん…三十路に突入し、おチビさんが生まれて数ヶ月経って回り回って辿り着いた1つの境地だった。
自分の中にある毒の芽
ナチュラルに女性と子供を大切にしない田舎の家系。
熱血が暴走した末の教育機関。
子供を怖がらせて意のままに動かし、個性を個性と認めず切り捨てる環境。
今では問題になるような扱いを受け、それでも誰も異を唱えない程に自分達がどっぷり毒に根付いていることに気付けない環境。
分かりやすい虐待や暴力が長くあった訳じゃないから私も今の今まで無かった視点だった。
日本の教育や女性や子供に対する扱いが問題だらけなのは分かっていたけど、それが思い切り自分に向けられて育っていたことに改めて気付く。
そして、そこから自分に埋め込まれた毒の種も。
しっかり私の中に根付いてしまっている。
たっつんやおチビさんと私はなんだか明確に何かで隔てられているように感じることがあった。
まっさらに生きる2人と未だに人生の棚卸しを繰り返してまっさらな自分に戻るために四苦八苦して、時に落ち込んだり怒ったりと忙しい私。
たっつんを見て『この人はきっと私のように傷付いたことや怖い想いをすることが少ないまま大切に育てられたのだろうな』と思うくらいには。
(たっつんにも色々あっただろうとは分かってはいるのだけど…。)
あーぁ、言っちゃった。
毒の芽あるって言っちゃった。
自分が育った環境も、関わり方も、たくさん私に怖い想いをさせて、我慢を強いて、傷付けて、それを教育とか躾とか、普通のことで問題とは全く思わない毒環境だったって。
毒持ちだけど、毒を断つ。
自分の中にある毒の芽。
ここまでの楽じゃない道のりは毒の沼という毒環境で生き抜くために自分で身に付けた毒性をとにかく緩和して薄めて薄めて、本来の自分を取り戻す道のりだったように思う。
なんていうか、今の私の周りで起きることが全部そこに繋がるんだ。
私が毒沼出身だって気付けなかったのは、毒沼が普通だったことがまず1つと…毒沼に生きながらも、毒沼だと意識してなくても、無意識に毒を薄めようと努力してきた周囲の人の努力や労力が確かにあったから。
それを人は良心と呼ぶのかもしれない。
苦しみながらも、もがきながらも、毒の沼で生きながらも後世に残さないようにと毒性を薄める努力を僅かながらでも周囲の人はしてきてくれたんじゃないかと思うんだ。
だから、私は歪に屈折しながらも、毒の芽を持ちながらもなんとかここまで毒性を薄める道のりを歩めたんじゃないかって思うんだ。
マジでキツかったから毒は許さねぇけど。
おチビさんに私の毒は継がせない。
私の毒の芽は摘み取れず、ずっと私の中に根付いていくものだとしても、私の毒は継がせない。
(自分で分泌した毒については自分でどうにかしてもらうとして。)
今の社会の形はまだまだ伸びる余地はあるし、改善点なんてそれこそ山ほどあるのだけど。
ここまで育ってきたのは間違いなく、毒性を薄めて立場の違う人や自分と違う人と共に生きようと努力してきた人々がいたからだろうから。
おチビさんの時代は今よりもっとずっと良くなると信じているし、私は私に出来る努力を止めない。
毒沼出身毒の芽持ちのワタクシですが。
これからもたつみのりっちで生きていくために。
自分の毒でオエオエしても、毒性を薄めるように日々を過ごしていきますぞ。
今日も元気に毒消し生活!
たつみのりっちの日々は続く…!