食べてくれる"あなた"がいるから。
「料理得意ですー」なんて口が裂けても言えない。
凝った料理なんて時間もガス代もかかるから、とか言い訳してやらないし、作った料理をSNSにアップするのも値踏みされるようで気が進まない。
でも料理すること自体は好き。
何かに行き詰まったときに、材料を切ったり炒めたり煮たりする行為はいい気晴らしにもなるし。
社会人になって一人暮らしを始めた当初は、なんだか張り切ってピーマンの肉詰めとか作ったりして頑張っていたけど、それも1年くらいで飽きて夜ごはんはスーパーの惣菜ばかりになった。
一人暮らしあるあるだが食材を使い切れずに悪くしてしまうのだ。
経済的にも良くないし、何より腐った食材を見たときの罪悪感。
「うまく使えなくてごめんね…」と何度語りかけたことか。
でも旦那と暮らすようになってからまた料理をすることが楽しくなった。
スーパーの特売情報をチェックし、お得な物を中心にお買い物。
クックパッドの検索窓に使いたい食材の名前を入力し、その時の気分にあったレシピをチョイス。
パズルを組み立てるように冷蔵庫の余り物を駆使して綺麗に使い切れたときの達成感。
しかも旦那は好き嫌いがほぼないからなんでも食べてくれる。
ゲーム感覚で料理をする楽しさもあるが、何より「食べてくれる人がいること」がわたしにとって大きなモチベーションなのだと気づいたのはごく最近になってからだ。
そしてその源泉となったのはまだ5歳くらいの頃の出来事だと思う。
母がピンクの柄に白いプラスチック製の刃がついた子供用包丁を買ってくれた。
なんでも大人の真似をしたがるお年頃だったので、働いている母に代わって主に台所に立っていた祖母を見ながら、”左手は猫の手”で料理を始めた。
デビュー作は野菜サラダ。
きゅうりは1cmくらいの輪切り、ミニトマトは半分に、レタスは一口大にちぎって、水色の平たいお皿に並べていく。
ドレッシングは確か乳白色のコールスローだったかと思う。
何の変哲もない、そんなサラダを、子には厳しく孫には優しい(母親談)祖父は「おいしいおいしい」と言って食べてくれた。
材料はそのまま、ちょっと切り方を変えて何日も続くわたしのサラダ攻撃を、その後も祖父は「おいしいおいしい」と言って食べ続けてくれたのを記憶している。
自分が作ったものを食べてくれる人がいること。
「おいしい」と言って、喜んでくれること。
その有り難さを噛み締めながら、今日もわたしは冷蔵庫の中身とにらめっこする。