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「末原拓馬奇譚庫」を言語化する
千秋楽が終わったのでネタバレというか読み手が観た人という前提で解釈未満の言語化をしてみようという試みです。
普段感想をそれなりに書く人間なのですが正直初日に観て今回は諦めようかなと思うぐらいには言語化が難しい作品だと思ったんですけど。でもやっぱり言語化したくなっちゃったので頑張ってみます。一部呟いてたことに被るかも。
まず、開演前の音楽(劇伴?)が3拍子なのが大変嫌な気持ち。嫌に不気味でザワザワする感覚。
いきなり客席の後ろから現れる青年。この客席降りが一気に客席を当事者にしてしまう感覚がいっそ清々しいとまで思った。舞台上から客席に延びる照明も相まって一気に劇場全体を奇譚庫にしてしまうその演出。
『二人三脚の小屋』
プロローグからこのひとつめの奇譚に移る時がまた独特だった。譚守だった彼が後ろの幕を引き、どかっと座り込んだ瞬間に空気が変わる。さっきまでいた譚守は、語り部であり老婆になる。
初日は小屋にいる得体の知れない老婆が語って聞かせる奇妙な話だと思い、その老婆が今まさに話している「一人になった」二人なのかもしれない.....と勘づく程度の話振りであくまで解釈の余地があった気がするけど、千秋楽に見たらもうその語り口に後悔やら喜びやらなにやらが滲み出ているような気がして、「そう」なのだと私の中では確信に変わった。あくまで解釈の一つだけれど。
これ不思議だったのが最初に切り落としたのは結んだはずの真ん中の脚で、つまり胴体をつなぎ合わせるまでの間彼らは離れようと思えばいくらでも離れられた、早い段階で二人三脚の記号的な脚を結ぶひもは無かったのだな、と.....。だから何と言うわけではないけど、だからこそゾッとするな、と。
後味がすごくすきな作品でした。星新一を連想する。
『「好き」、と檻』
これ難解でした。正確に言うと、観て解釈したものを言語化するのが困難でした。あくまで個人の解釈なので、脚本家の意図に沿ってないかもしれません。読んでいる方の解釈と違うかもしれません。一解釈としてお読みください(このnote全部そう)。
初日に観た時ミュージカルNext to Normal(以下n2n)の逆版....という分かるようで分からない言語化をしたんだけど、ざっくりとn2nでは”息子を亡くした母親が双極性障害により成長していく息子の幻覚をみている”描写がありストーリーの主軸になっていて。母は男に、息子は怪物にそのまま例えられそうだけどなんというか意識の部分で逆だな....と思ったので。奇譚庫とn2n済みの方がいれば絶対に話したい。
怪物が母であるのでは?という思いはみかしゅんさんの仕草や表情から感じていて。ソフトクリームのエピソードが顕著かな....。あと「踏み潰せそうなほどミニマムな時代から彼を感じているわ」でお腹に手を当てていらっしゃる気がする......。「撫でたいけど4000%ほど不可能なのよ」が悲しくて涙出た。
息子は、母の死に囚われている。それが”檻”なのだと思う。母の存在を檻に閉じ込めているようでその実囚われているのは彼自身。
なぜ怪物として閉じ込めているのか?向けている嫌悪や憎悪ともとれる感情は何?と思うのだけど、恋しくて堪らない気持ちが愛しい母の存在を歪めてしまったのではないか、と考えたりした。「思い出したくないんだ!」と、「忘れてしまいたいんだ!」の矛盾。忘れてしまいたいと言うことは覚えている。つまり思い出すまでもない。しっかりと記憶に残っている。忘れられるはずのない、でも歪んで見えなくなった、見ようとしない真実というか.......。
「お願いだ、わかってよ。どうして俺がお前をこの檻の中に閉じ込めたのか」
実はこの台詞だけ分かるようで分からない。その前の「見るも無惨なおぞましい変形を始めたお前、言葉を忘れ始めたお前のことを、この宇宙の何人たりとも馬鹿にするのは許せない」を含めて。ここが分からないせいで自分の解釈がそもそも全く的外れなんじゃないかと思うぐらい。ただこれすらもこの男が勝手に恐れていることで、心の鎖なのではと思ったりもする。影になるだけ。ずっとそばにいてくれる影に。そのことに気がつけず母の死を受け止められない彼の、底知れぬ恐怖や不安みたいな.....。難しい。
この芝居、2人芝居なのに1人芝居みたいに感じるのが印象的でした。会話をしているようで会話をしていない2人。特に怪物の語りはこちらに向いていると感じた。男の声は怪物に届いている、しかし怪物の声は言葉として男に届いていないのでは.....?だから1人芝居と感じるのかな、と。会話ができるようになった頃には、もう2人は別れ時で。「消えるな」「消えたくない」「ここにいろ」「ここにいたい」「頼むから」でもここも会話しているようでしていなかったのかもな.....とても会話しているように聞こえるけど、男に怪物の声が届いている感覚が薄い。
観ている時は直感的にわかった感覚だけど、言語化すると理解が甘すぎる。もう観れないのが悔しいです。正解はなくて良いと思いつつ、脚本家の意図は聞きたい。
『あの化学実験が行われた次の年に生まれた私たち48人の新生児は』
これも強烈な一人芝居だった.....。としもりさんの場の空気の作り方も独特。静動で言うところの静で場を支配する。
千秋楽の昔の日記のシーンが切なすぎたな.....。過去の自分を嘲笑う場面、つらそうだった。苦労なく歩けるようになったことは嬉しい、嬉しいけど、過去の自分のいじらしさや懸命さが今の自分にないものとして切なくも嬉しくも感じるような。
ラストの「私は今、痛みを感じません」、痛くて痛くて仕方ない顔だった。傷の痛みでなく、心の痛み。あんなに生きたいと願っていた男が「しぬならしぬでしょうがないか。」と諦めるのもつらかった。
自分が観劇の回数を重ねたからなのか、千秋楽に向けてどんどんこの驚くほど静かな語り口の”私”の複雑な感情が手に取るように分かって苦しくなりました。
『悪口屋』
これはとても現代社会の風刺を感じてパンチが効いてる作品だな、という印象。
“悪口屋”をSNSの場に置き換えると合点がいく。マダトコトダーマが吐き出す黒い光、客たちは知らぬところなのがまたね.....。マダトコトダーマってなんだろ。これほんと末原さんに聞きたいけど、”言霊とmurder(殺人)”は考えすぎですかね.....。分からん、私がこれをSNSの闇の話だと思っているからというのはある。
そしてウカリくん君闇バイトの末端させられてるよ、と思っているのもこれをSNSの闇の話だと思っているからです....。
個人的には悪太郎がばりぞうの「隣町のせいでうちらどんだけ無駄に市民税払わされてるわけ?!」にあんまりピンときてなさそうなのにそのあとどんどん悪口言ってるのがとても嫌(嫌)です。なんというか人が悪口に乗ってしまう時のやつ。
全体的にいやーな話でした。嫌。キャッチーでわかりやすいが故のいや。
「あなたの過剰な興奮が、妨げています、みんなの幸せ」
↑ここの倒置はめっちゃ好き。
あと店員が舌を出すあの象徴的な仕草、ト書きにないのね.....?
『黄色い扉向こうのソウスケ』
これはもうそうなるべくしてそうなる話だな、と。大学生が黄色い扉のことを、ソウスケの名前を思い出すことが決められている話。まさに前向きな絶望。いや大学生にとってはそうじゃないかも、ごめん。
走り出した瞬間から物語の行き先が決まりきっている、そんな印象の話でした。千秋楽エナドリ出てきたよ。あんぱんとエナドリの食べ合わせ最悪そう。あとモンスターって炭酸強くない?舞台上で炭酸飲む勇気。
分かりきってダークエンドなので安心して笑える場所でもありました。末原さんととしもりさんの阿吽の呼吸も、末原さんと真一さんの仲良さそうなおふざけも。舞台が1時間50分をとっくに超えていたのは8割ここのせいだと思う。
『25時』
まえかわくん初の一人芝居。
最後のいちばんまえかわくんらしくない「あー...ミスった......」をね、2回目から聞きたくない気持ちになりました。(笑)夢を見たままでいさせてくれ。
とてもとても台本の台詞回しが末原拓馬さんのリズムだなと思いつつ、紡ぎ方はまえかわくんのそれなので不思議な感覚だった。
「そして今、人生で初めての疑い」の前の間の取り方と雰囲気の変え方にとても末原さんを感じたり。
一人芝居って場を支配する求心力と台詞の置き方、間、リズム感で魅せるものだと思っていて、それらが存分に発揮されていて良いものを観た、の気持ちでいっぱいです。
「あの日あなたが言った初めましての一言なんです」これすごく美しい台詞だな、と思いつつ後ろの孤独な少年と物語の台詞に繋がるような気がして、奇譚たちはバラバラであってそれが正解だと思いつつなんとなくリンクを感じるので面白いなぁと思ってました。
『闘鶏乱舞』
とうけいらんぶです。何も言うまい。
この大きめのBGMの中で戦いながら、喋るときにはBGMが止まって、みたいなつくりが何かを思い出させるんだけどなんだっけ.....となっています。たぶんラケット関連。
なんというかこの結果は同じでも心意気だけは違くありたいスタンスに、ミュージカル版ロミジュリの”世界の王”を感じていました。俺たちこそが王、みたいな。脱線するんですけど末原さんの台詞の言い回しというかリズム感が詩的だからかとてもシェイクスピアを連想してしまって、奇譚庫のことを考えながらずっとシェイクスピアの話をしている人になっていました。
ちなみに最後の後味は完全にレミゼのバリケード後です。
独白集、どれも圧巻だった.....。
末原さんのアクリル絵の具、初日はなんか可愛らしいなと思ったのだけど25日は執着強すぎて怖い話になってた。
猫の死に際、本当にリズムが詩的。そして人間がそう歩くだけで正面から見て歩く猫になるのか....と衝撃を受けました。ここの身体表現とてもとても演出家の色が出ている。
フォロワーさんと話していて連想する猫が違うのが面白かったです(CATSの話)。
マニキュア、これも初日に比べて25日が悲嘆的に聞こえて......。
ルームシューズは「さぁ僕を捨てろ!」がいじらしくて仕方なかったんだけどもうルームシューズ捨てられない今年。
グラス、グラスグラスグラスグラス......。ここのリズム感がすきだった。「わかっちゃいるけどそれが僕なの」も。かなり好きだったかもしれないこのグラスの物語。
ボールペン、台本読んでもあんな硬派そうなボールペンには辿り着かないな.....マインドがロックだなと思った。これも千秋楽につれて勢いが増していた。何かを残したいその思いが。
お香はお香を普段使う側としてとっても複雑な気持ちになったのだけど....。「いいんだ いいんだ 綺麗に燃え尽きよう」がね.....なんていうんだ、ノスタルジーというか、哀愁?たぶん今後お香を使うたびに思い出す奇譚。余談ですが梅雨時期に焚くお香が好きです。
「金槌の魚溺れて死んだ」これ1番短い奇譚だと思うんだけど、なんか心を捕らえて離さない奇譚.....。あるはずないのに、あるかもしれない。
最後、孤独な少年とノートの話。青年の正体。
初日に観終わって劇場出た時に思わず友人と「良かった、池袋だ....」と平日21時の池袋の街並みに安心してしまったのだけど、この「戻ってこられた」安心感がこの演劇の面白いところだったな、と思っていて。これは前述の客席降り芝居とか照明の効果だと思うし、最後の真相から来るものだと思う。
結局譚守も何者であったんだろう。「4人」なので助数詞から察するに人なんだけど、彼らは本当に人であったのだろうか....?特に末原さん演じる譚守の動きはどこか人間離れしていて、さながら奇譚のようであったり。
長々書いたんだけどこの”分からない”という感覚も大切にしたいと思っていて、分からないからこそ奇妙だと思ったりゾワゾワしたりするので物語の後味として悪くないな、と思うわけです。
末原拓馬奇譚庫、初日観劇後のあの感覚に勝るものはないんだけど回数を重ねるにつれて輪郭が見えてきて面白いなと思ったり、やっぱりわからなくてソワソワしたり、千秋楽には奇譚たちが最後のチャンスだと強く語りかけてくる感覚になったりととてもすきな作品のひとつになりました。泡沫の夢〜って感じ。触れたら消えてしまいそうだけど、奇譚たち図太そうなのがまた良かったです。触れても消えてくれなさそう。
照明もなんかもう、すごかった。アイデアと工夫に満ちている。最後列も高さがあまりなかったのでこの舞台2階席とか調光室から観たかった〜の気持ちです。