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紀伊カンナという最高の作家について

今、この記事をスタバで座って、パソコンで書いている
タイトルの「紀伊カンナ」という文字が大きく表示されて
BL漫画好きだとバレないか冷や冷やしている

そんな中、最高の漫画家について書きたいと思う。

初めは『春風のエトランゼ』という漫画からだった

普通は『海辺のエトランゼ』を先に読むが、私は順番が違った

『春風のエトランゼ』1話は飛行機の中から始まる。
駿が回想する男、和田と駿の恋人である実央が似過ぎていて、最初だけ、数分だけ区別がつかず、頭が混乱したのを覚えてる

ダンスを一緒に踊っているのが和田
駿と実央

 紀伊カンナがイラストレーターとして、私が好みなのもあるが、作者自身が元アニメーターであることも関係するのか(参照『魔法が使えなくても』)、背景に対する細かな気遣いと、自然な会話のテンポ、ギャグ的な線や会話の流れの心地よさなどは、作者の美点であると感じる。

以下はただ褒めるだけで終わってしまいそうなので、いくつかの観点に分けて作者について、作品について書きたいと思う。

1.平成モノが生み出す窮屈さと匂いを消し去る作者
2.社会的制約(経済やマイノリティ)からの解放
3.橋本文という重要な存在


1.平成モノが生み出す窮屈さと匂いを消し去る作者

 多少なりともBL作品を読んだ人たちは感じるだろうが、
 取り敢えずのトラウマ要素として「親子問題」や、学校でのいじめ、都会の会社員生活で疲弊していく展開など
 これらの要素が色々な作品にスパイスとして入れられていて、テンプレになっていると思う。
 こういったテンプレが増えてしまう、もしくは増えているように見えてしまう状況には、BL漫画好きとしては納得ができる要素と、できない要素で分かれてしまい、それぞれ説明すると長くなってしまうので省こうと思います。
 前置きが長くなってしまいましたが、ここから、平成モノについて書きたいと思います。

BL漫画としては一番有名と思われる『同級生』

 今回は例として、自分が好きな作品『同級生』をあげたいと思う。
 この作品は、詩のようなテンポの良さで2人の関係性と学校生活が描かれていて、私は最初のコマ一つで心を掴まれた。

『同級生』の最初のコマに当たる

 その後の、独特な吹き出しの描き方や、話のテンポ感、2人の描き方でかなり面白い作品だと今でも思う。
 特に、佐条利人(画像の左側)が大学生になってから独特の魅力を持ち始め、性別問わず周りの人間を魅了していく描写はかなり好きだった。
 また、原先生のことを描いた『空と原』も個人的にはシリーズの中で一番くらいに好きな作品である。

 『同級生』の紹介が長くなってしまったが、この作品にも平成っぽいところはあり、『blanc』と『rings』まで話が続いたところで結婚式オチになったところや、利人の父親が出てきて結婚に反対するところなどは、あるあるの下りとして消費されてしまうと思う。

 しかし、これは『同級生』シリーズを読む際のむしろ良い要素であり、この下りすらも私は面白く読めた。
 それは、作者がかなりの長い期間にわたってこのシリーズを書いてきたことや、それをまとめる作業に入ったことが『blanc』や『rings』あたりから分かり、そういった作者の漫画家人生に作品が関係しているのがわかるためである。

 話を『春風のエトランゼ』に戻したいと思う。
 平成のそういった親問題は、『春風のエトランゼ』1巻の序盤では描かれるが、極めてさらりと描かれ、その後もトラウマとして反復する様子もない。

 また、BL作品は2人の出会いが、どこで発生するかが重要な最初のイベントとして描かれるが、それもこの作品ではあっさりとしていて心地いい。

通学路で実央をナンパする駿

 こういった描写を自然とできるのは、2人が南の島、おそらく沖縄あたりに住んでいるのが影響していると思う。

 よくある出会い方のテンプレとして、兄弟の友人や、酔いつぶれて街中で出会うなどが存在する中、こういった距離感のものは中々出てこない。
 それは、作者が地方、中でも離島(沖縄や北海道)に強い思い入れがあることで、自然な人々の出会いや街中での動きを描けていると思われる。

この台詞に、この作品の良さは詰まっていると思う

 見出しの「平成モノが生み出す窮屈さと匂いを消し去る作者」に改めて言及すると、「窮屈さ」の部分は学園モノで必ず描かれるいじめや、親子問題など過去のトラウマを癒すというさまざまな要素を指す
 それを本作では、画面構成と背景の美しさや、2人の関係性の爽やかさで吹き飛ばすかのように匂いを消し去る力が紀伊カンナ氏にはあると私は思う。
 もちろん、「窮屈さ」にはそういった描写だけではなく、想像力の窮屈さを示す。例えば、恋愛物語を描く際に必要となる2人の関係性について、平成モノではとりあえず別れる展開が間に入ったりする。
 そういった物語を自然に進める際に必要となる展開や、キャラクターの描き方が本作では繊細な点が挙げられる。

実央がバイト中に出会うゲイバーのママ

 実央自身が、自分の知らないセクシャリティについて疑問を解決していく描写は、さらっと描きつつも丁寧に、彼が離島で自立するためにバイトしていた時の回想から描かれている。
 こういった場面はよくある展開として、学園内でやたら詳しい友人が何故か存在してそいつとの会話からセクシャリティについて知っていったり、受けが無知であることが良いという展開がよくある。
 ただ、この作品はそうではなく、人里離れた地域に行っていた実央の人生にも駿とは別の時間軸、別の出会いがあったことを示してくれる。
 当然、離島には居酒屋があるし、そこで働いている人もいれば、本島まで行っている人もいる。そういった、あまり触れる機会がない世界を描き、そこで生まれる物語を描くことで魅力的なドラマを作り出している。

2.社会的制約(経済やマイノリティ)からの解放

 社会的制約という言葉に引っかからず、ここは会社勤務を例に出したいと思う。
 橋本駿は作家として高校卒業(?)から恐らく活動しており、ここには彼の自由な生き様が実央とは対照的に描かれている。
 彼がもし、会社員として働いていたり、地元のお店を営業していたりしたら、実央との出会いはドラマチックではなく、たまたま街中で酔い潰れた人を介抱したら…みたいな展開や、社内恋愛などの方向へ物語が進んでいたと思う。
 そうしなかったことで、駿の生活が、また2人の生活がどのような方向へ行くのかテンプレがないため想像できない点が本作の魅力だと思われる。

 この作品の中で、駿が実家暮らしを実央と2人でしていくところから物語を始めたのが、作者がなんとなく思っている考えを読者も体験するための良い展開になっていると感じる。
 例えば、上記のページのように”なんとかなるさ”的な考えはこの作品の重要な考えである。それは、実央がアルバイトをしている描写があることで丁寧に描かれており、これでもし2人ともアーティストとしてフリーターをしていたら、このあと絶対こいつら別れるだろというBL漫画の最終回によく思う展開になってしまう。
 そうではなく、実央は堅実にアルバイトや貯金を進めていき、駿は波があれど作家として走り続けている。そういった描写が社会的な制約からの解放である。

 もうひとつの、マイノリティは上記の内容とも被りつつ、特に”性的マイノリティ”に対する描写が、本作のみならず紀伊カンナ氏の作品には多く見受けられる。例えば、過去作の『魔法使いになれなくても』では女の子同士の恋愛が描かれたり、『雪の下のクオリア』では誰とでもワンナイトで寝る男の子が描かれたりする。
 (そういった時に、先ほどの経済的に貧しい生活を送っている人々が多く描かれているのも特徴的である。)

参照元:『雪の下のクオリア』

 ただ、紀伊カンナ氏の作品を読んでいくと、性的マイノリティ(特にBLや百合にまとめられてしまう)、恋愛する前提のマイノリティに対して切実さを作者が感じているのかもしれない。BLに必ず出てくる”世間の声”的な役割を果たす側面、自然とその狭苦しさから抜け出す物語を作り上げていくのが、作者の美点と言えるだろう。
 しかし、”世間の声”として描かれる、上記の画像の「視界に入るだけで気色悪いって事もあるんだから」という台詞は、平成までに多くの人が持っていたかもしれない価値観で、読者である私(2001年生まれ)にとっては、あまり聞かない声であった。自分が男子校出身であることや、学校という空間を抜けた大学生であることも考慮される。学校では、確かにこういった台詞のような価値観は、自分の周りにも静かにあったのかもしれない。

・脱線

2巻から引用

 作家自身の感情が大きく乗っかっているのは恐らく駿の方だと思う。特に作家自身が感じる行き詰まりなどを定期的に描いている。
 この作品は3巻の後半から時間を大きく飛ばすこととなる。それは物語の飛躍を目指したのだろうが、BLや日常というジャンル特性の範囲から抜け出すことは難しかったのかもしれない。そのため、3巻の終盤で繰り広げられる展開はどこかありふれた、わちゃわちゃした空気を作るだけに収まった。

4巻から引用

 しかし、3巻の終わり、4巻の初めで重要な起点が出てくる。”望ような自分になりたい”という台詞である。平成世代が抱えた悩みとして、数々の漫画で見かける。それこそ、私が好きな『違国日記』ではこれをテーマとして永遠と描き続けた。

 こう言った、悩みや問題は一見重要そうに見えてしまうが、考えすぎると沼にハマるような危険性も持ち合わせている。そのため現実では自分の事しか考えてないナルシストや、自分探しの旅など、そういった傾向になる人が多く存在し、漫画の世界を作るキャラクターたちも作者の考えで悩みの沼にハマる危険性がある。
 そういった時の対処法として、紀伊カンナ氏は駿と実央を中心に世界を広げていくのが丁寧だと思う。
 例えば、父親がうつ病で休職して、しばらくしてから復職するという描写が漫画の中である。そういった、人々がスルーしがちだけど重要な場面を作者はさらっと間に挟み、日常の世界観を私達は体験できると思う。

 BL作品となると恋愛漫画である以上、2人の関係性を描く以外になくなってしまう問題がある。私としては気にならなかったのだが、何度も見返すと作者としては3巻と4巻でこの問題に早くもぶつかっていたのかもしれないと感じた。
 社会には私たちが絶対に理解し合えない存在がいて、そういった者とキャラクター達が出会った時に物語の世界観が広がると私は考える。
 そのキーとなる人物が、この下記の画像の草野さんかもしれない。

5巻で登場する草野進太郎

3.橋本文という重要な人物

 脱線で触れた草野さんについては、書くことがないほど登場したばかりなのでスルーしようと思う。

 重要だと個人的に感じたのは、橋本文という人物である。

 彼の出生については、ネタバレになってしまうため伏せようと思うが、実央や駿にとっては大事な第三者である。
 1巻から登場し、文を起点に実央と駿のドラマは進んでいく形となる。その具体例として、以下のシーンが挙げられる。

文の学校の授業参観に来る実央と駿(画像のコマでは不在)

 この授業参観によって、実央が駿の初恋の相手について知っていったり、文が抱える家族に対する価値観の不安が吐露されたりする。
 この話は3巻にあたり、これまで実央と駿の関係性に入ってくる存在としての文を、今度は中心に描いたものだと思う。彼は1、2巻まで2人と桜子という駿の許嫁の間を取り持つ存在となっていた。
 そのため、擬似家族モノを作るためのキャラとして存在しているように見えた。ただ、そう言った無理矢理な裏テーマがこの作品には存在していないように思える。
 この『春風のエトランゼ』では、先ほど社会的制約に縛られないと言ったのと似た意見で、「家族」という概念に縛られない人物たちのドラマを描いている良さがある。これは、当たり前じゃない世界をさらっと、日常として描ける作者の力量と、BLというジャンルをうまく活用している点が見られる。

 恋愛やBL漫画において、初恋がうまくいかずに終わるという展開は必ずある。”当て馬”や、失恋から物語が始まるなど様々だが、大抵の作品はそういった展開をさらっと流すことで、2人の恋愛を描くことに集中する。
 しかし、この漫画では橋本文を中心に描くことで桜子に対する初恋を描こうとしている。それが、私が文を重要だと考える要素の一つでもある。

下段の左が橋本文、右が桜子になる(4巻)

 1巻だけで話が完結する多くのBL漫画では、こういった初恋を中心に描くとボリュームが多いため断念する。また、別巻で描くとしてもサブストーリーとして独立してしまうため、ファンのための二次創作を本家がやっているように見えてしまう。
 この4巻で描かれる文と桜子の話は、読み返してみると恋愛漫画であるがゆえに、本家のサブストーリーとなってしまっている。しかし、私はそれがさほど重要な問題ではないと思う。それは、作者が究極的には日常を描くしか無いと考えているのが最新の5巻から見えてくるからである。
 恋愛を中心に描くと、何をしても2人が結ばれるか否か、また、”葛藤”や”不安”といった感情を描写するしか手段がなくなってしまうからである。ところが、4巻では文を中心として2人がどのように見えているのか、重要な視点として表現している。

携帯ショップで買い物をしている2人を見つける文たち

 2人の恋愛を描きすぎると、彼らが社会の中でどういった立ち位置に存在しているのか、どのような恋愛をしているか作者も読者もわからない時が多い。
 このコマでは、文たち学生にとって駿と実央は暇人に見えるかつ、ラブラブな2人に見えているのかもしれない。そういった、素朴な外野からの視点と交差することで物語は面白くなると、この作品を読んでいると感じる。
 この先、文がどのような学校生活を送っていくのか、何を求めて生きていくのか、平坦な人生でも描くことが面白くなると思った。

まとめ

 参考画像を使って長々と書いてしまったため、ここで3個の軸についてまとめを書きたいと思う。

 一つ目の「平成モノが生み出す窮屈さと匂いを消し去る作者」では、恋愛漫画、BLというジャンルが意図せず作り出してしまった特有の窮屈さについて触れつつ、それを紀伊カンナ氏作者は”日常”を丁寧に描くことで脱出したと考えた。この点は、漫画家として有名な「よしながふみ」の『きのう何食べた?』とは全く違う姿勢で作品の良さを引き出していると私は思う。

 二つ目の「社会的制約(経済やマイノリティ)からの解放」。これは作者自身が「会社員を描きたい」や「アイドルをヒロインにしたい」といった見切り発車で物語を描かない美点が存在すると思う。それを踏まえた上で、駿と実央を含めた人物たちの、狭い世界に囚われない価値観を持っている描写が各所に細かく入っている点を書いた。

 最後の「橋本文という重要な人物」では、完全な”第三者”を描くことの重要性について語った。1巻から登場する橋本文は、普通は実央と駿を描くことで世界観を作り上げていくBL漫画のなかで、文を中心に置くことで徐々に円を広げていくように世界観を作り上げ、それに比例して物語も面白くなっていく。この、”当て馬”でも”恋敵”ない完全な第三者を作り出せるのは、日常を丁寧に描ける作者独自の魅力と言える。

 本当は『春風のエトランゼ』をただベタ褒めしたかったのだが、それではAmazonとかのレビューと変わらないと思ってしまい、長文で記事を書けるnoteを使うからには、ぎりレポートになるかなぐらいのものを書きたいと思った。
 次からは、ジャンル問わず他の漫画も取り上げたいと思う。


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