短い記録282:【過去記事再公開】ミスター・イセマフ氏 後編
ごきげんよう、ナガセです。
長かったので前編後編に分けてます。
前編はこちらからどうぞ
あ、お礼いわなきゃと思って近づくと、おじさんはまた私の顔を見つめた。
口がわずかに開いた。
「あの、すみ」
私の言葉より先に、おじさんは言い終わった。
「今日、嘘を吐いたね」
おじさんは私をまっすぐ見据えて言った。
私は息がつまり、唇をぎゅっと噛んだ。
はあ? 何でそんなこと言うの?
おじさん、私のこと知らないじゃん。関係ない人じゃん!
気がつくと、バス停にいた。
そのまま走ってきたから、呼吸が荒い。
さっき詰まった分を取り返すかのように、はあはあしている。
呼吸が荒い時って、泳いでいても上手く水が切れない。
切れないどころか攫めない。
水にするりと嫌われる感じ。
あれ、凄く嫌。
スイミング教室に通い始めた頃、毎日毎日水泳のことばっかり考えてて早く土曜日にならないかなって思ってて、いざ土曜日になって準備体操してシャワー浴びる段階になればもう早く飛び込みたくて仕方ないくらいだった時にはなかった。
水に嫌われるようになったのは、タイムが飛躍的に伸びたり停滞するようになっての繰り返しが始まってから。
そりゃ、ずっと右肩上がりで記録が伸びていく人なんていやしない。
素質だの才能だの基本的なことだの言われてむしゃくしゃしてると、大体その日は水に嫌われる。
ずっと切れない期間が続くと、こっちも嫌いになってやるって思ってしまう。
バス停には誰もいない。
私は文字通り人目もはばからず、涙をこぼした。
こすらないようにしなきゃ。
目が腫れたら明日なんかいわれちゃうし。
ぼたぼた落ちる水滴で、ジャージの袖口が濡れる。
ちくしょう、あいつなんかミスター・イセマフ氏だ。
伊勢丹紙袋柄のマフラーおやじ!
バスが遅れている間、私は気が済むまで涙を流し切り、けろりとした顔で家に帰った。
泣いたことは事実だけど、いわなければ嘘にはならない。
嘘なんかついてない。
どうしてミスター・イセマフ氏は私にあんなこといったんだろう。
だいたい、あの人何なんだろう。
ちょっとおかしい人なのかなっていう気もしないでもない。
見た目は普通だけど、なんだか喋り方が変わっている。
お風呂の中で、水を掬う。
今日やったように深呼吸を繰り返して、目をつぶって。
泳いでいる間はもう少し水温が高かったらいいのにと思うけど、実際にお湯の中で泳ぐなんてムリだし。
昔はスイミングから帰ってきてもお風呂の中でばしゃばしゃ手の掻きの練習してたな。
あんまり長いこと入ってるから、お母さんが途中で見に来たりして。
何時、水に嫌われたんだろう。
何時、私は泳ぎたくないって言い出したんだろう。
先に水に嘘を吐いたのは、私だ。
おんなじあったかい水が自分の目からまた流れている。
辞めたくない。
行きたくない。
今日は祝日で学校はない。
外にも水の中にも行きたくない。
ここから動きたくない。
昨日泣いてぼろぼろのひどい顔を見るのもいやだけど、とりあえず身体を起こす。
それだけなのに、いつも持っていくかばんを手に取ろうとしていた。
「今日は行かない。サボる」と口に出して言ってみた。
ジャージじゃない服を選ぶ。
ローファーでもスニーカーでもない靴を引っ張り出す。
行き先はない。
プール以外のどこか。
定期券と反対の方向へ。
祝日の電車は、カップルと親子連れしか乗っていなかった。
そうか、みんな遊びに行くんだな。
気がつかないうちに世間は春の装いだ。
パーカーはパーカーでもファーがついている私の格好は、ちょっと外れている。
肉まん、まだおいしいけどな。
電車は遅れずに終点へと向かう。
小さい頃行ったことのある遊園地みたいなところを過ぎて、景色にだんだん緑が増えていく。
ここまでは来たことなかったな。
いつの間にか乗客が減っている。
みんな行くとこあるんだなぁ。
いいな。
今日はサボると決めたくせに、気がつくと泳ぐことを考えている。
腕のふりを頭の中で確認する。
つま先まできちんと伸ばしてキックできているかどうかも。
今、上手く水が切れた。
ちょうどその時、電車が止まった。
車内アナウンスで、どうやら急病人が出たらしいことを知る。
しばらく電車は動かない。
仕方がないので、ぼーっと外を眺める。
ホームに見覚えのある人が現れる。
イセマフ氏だ。
相変わらずきっちりマフラーをしている。
なんでこんなとこに?
それにまっすぐ歩けていない。
私は電車を降りていた。
「あの!」
イセマフ氏がゆっくり振り向く。
顔色がなんだか良くないような気がする。
もしかして急病人って……。
「すみません、通してください」
後ろから駅員さんが大勢やって来る。
私はベンチの横まで下がり、その様子を見守った。
駅員さんが手を貸そうとしても、イセマフ氏は首を振って動こうとしない。
とうとうベンチに座り込んでしまった。
何人かの駅員さんがその場を離れて行き、電車も行ってしまった。
ほんの少しの間、私と彼はホームに二人きりになった。
「あの、このあいだ、どうして声をかけてくれたんですか」
イセマフ氏は答えない。
「腕のアドバイス、参考になりました。おかげでタイム伸びたんです」
彼はうつむいたままだ。それでも思い切って言った。
「聞こえてないかもしれないけれど、ありがとうございました」
その時、後ろから女の人の呼びかけが聞こえてきた。
「また電車に乗ろうとしていたんですか。行ってもいいから一人ではやめてくださいって言ったじゃないですか」
「すみません、ご家族の方ですか」
「はい、もしかして主人が何かご迷惑をおかけしましたか」
「いえ、そうじゃなくてお世話にというか……」
私はしどろもどろになって女の人に伝えた。
「そう、やっぱり水泳が好きなのね」
「え?」
私のこと?
「うちの主人は昔教師をしていてね、水泳部の顧問だったのよ。だからあなたくらいの年齢の女の子を見かけるとそういう水泳のアドバイスをしてしまうらしいのよ。病気をしてやめてしまったんだけど、どうしてか、水泳をやっている子はわかるようなのよね」
私はさっきの勘違いを恥ずかしく思いつつ、無性に水が恋しくなった。
もしかしたら私の中で最後に残るものも水なのかもしれない。
お気をつけてと会釈をして、反対側の電車に乗り込む。
まだ間に合う。
戻ったらかしちゃんに、私は続けるって言おう。
(了)
※ここから下はCMです
創作大賞2022に応募中
通知、時々内緒話のLINE公式アカウント