"逃亡日記" 第26夜 Iittala展 -フィンランドガラスのきらめき-
人はなぜガラスに惹かれるのですか?
…それは"森の中のみずたまり"だから。(隈研吾)
ふらりと行った"イッタラ展"が良かった✨
ガラスをずっとみてたら、水とか光とか境界面(なんだそれ⁈)について考えたので、今日はそんな話。
語りだす器たち
フィンランドは、短く甘い夏(24時間ずーっと太陽が沈まない)と長く厳しい冬(ずーっと夜)と自然を愛する国。
ガラスの食器に"光"や"色彩"を求めた気持ちがわかる気がする。
色味も、さまざまな水の色や(川?湖?海?…流れてる?凪いでる?…どんな深さ?…が全部あるんじゃない⁈)少しくすんだ自然の色が多い。モスグリーンや雪雲みたいなグレー。
あざやかな赤は目を引くけど、主張しすぎない色彩がずらりと並ぶ圧巻。
フラワーベースによくつかわれるグリーンブラウンが時々、昆布(‼︎)に見えるのはひみつ😆
水 泡 氷 ポットホール…厳しい寒さが生み出す"水"の変容のかたちを、ガラスで表現しようとするデザイナーたち。観ていると、"水"には夏を感じるし、"氷の中の泡"や""悪魔のゆりかご(ポットホール)"には春を、何もない森に突然出現する"キノコ"や淡いピンクの"くちびる"には生命の不思議を感じる。そしてその素直で直球の表現に、心をうたれる。
透明さと、洗練されたデザインと、あざやかな色ガラスのあとで観る、巨大な"世界の果て"のオブジェは、ちょっと切なかった。
痛いほど冷たい風と果てしなく続くモノクロームの雪と氷の世界。手の中で、ぽとぽとと溶ける氷の器。"これを手に取る覚悟はできた?"って、言われてるみたいで…うーん…まだ持てない。
おうちで、カフェで、雑貨屋さんで。
見飽きるほど見てきたつもりのガラス器たちが、突然雄弁に語りかけてきて、びっくりしながらも聴き入ってしまった。
かたちをつくる
あたりまえだけど。溶けたガラスは熱くてさわれないから、型に流し込んだり、しゃぼん玉みたいに吹いて、形を作る。
今回の展示では、アアルト・ベース(みずたまりみたいな形のフラワーベース)のため”型”が展示されているのだが、むかし使われていた”木枠”がすごく味わい深い。
溶けたガラスの高温で、焦げた木材。ひとつひとつ形作るたびに、微妙にゆらぐガラスの曲面。古い建物の窓ガラスに似た、わずかにひずむまろやかな光。
もちろん最新のグラファイト型で作られたものは、デザイナーの意図を精緻に表していて、何よりモダンでクールな直線がインテリアをぐっと今風にする。
好きだよ?とてもクールで都会的で。
でも、木枠でゆらいだガラスを見ると、愛おしくてたまらなくなる。
人は、あんなに直線に憧れてあらゆる技術を磨いておきながら、直線がたやすく手に入ると、とたんに”ゆらぎ”を欲するの。
…わがままだけど。本能だから止められないよね?
"生きている"境界面
イッタラが得意とするのは、"バード"をはじめとする有機的なかたち。
(ちなみに"バード"の制作工程がまじですごいです…うわー…これが工藝ってやつか!!)
ひやりと冷たく重いガラスに、いきいきとした息吹を吹き込み、かろやかに跳ねて踊って飛んでしたたり落ちる動きを与えるイッタラ特有の境界面。
ただのコップなのに、思わず触れたくなる、手に取りたくなる……えーと、その…連れて帰って”うちの子”にしたくなっちゃう感じ?
なんで世界中の人がこんなにイッタラのガラスが好きなのかを考えた時、それって境界面を探す人の本能なのかも…って思いついた。
8K映像とか人の視覚より精細に見えるのに、飛行機に乗って旅行に行くように。
うるさいって言いながら、猫や赤ちゃんに触れたくなったり。
文章なんてスマホでもPCでもかけるのに、えんぴつの匂いと重さにほっとしたり(そして、もれなくぐるぐる線をかいてしまう笑🌀)
すべての子どもが、水あそびを止められないように。
水のように透きとおっているのに手に持てて、型にはめればそっけなく、操ればどんな曲線にもなって、キラキラ光るくせに、眠たげな表情も得意。
いつもはとても身近にいてくれるのに、ある時一瞬で壊れちゃう。
…そうか。
壊れちゃうってとこが、最大の魅力なのかも。
"生きている"って、そういうことかも。
プロダクト・デザインをめぐる旅
2021年9月に、『ふたりのアアルト』展をみてから、『フィンレイソン』『上野リチ』『民藝の100年』『フィン・ユール』…と、はからずもプロダクトデザインに導かれる旅が続きます。
…この感じであと2年くらいすると、ガチの『無印』展がみられそうな予感。ふふ。
次はどこに続くのかな。
東京は、2022/11/10まで
そのあと、島根(2023/4-)長崎(2023/7-)京都(2024/4-)に巡回予定。