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日本の「庭」とヨーロッパの「庭園」⑭
「フランス式庭園と日本庭園との比較論はしばしば目にしますが、このレポートでは、英国式庭園と日本式庭園との対比を試み、両者の自然への対し方、それを生み出した彼我の土壌の相違、志向性の相違を豊富な資料に丁寧にあたりつつ考察を試みています。」との評をいただいたレポート、最終章です。
第4章 イギリスの風景式庭園
第1節 成立の要因
(☝の続きです。)
しかしながら、以上のような自然を肯定する動きばかりでなく、旧来の庭園に対する否定的な態度もまた、風景式庭園を形成する契機となったことを指摘する必要がある。
ここで、当時の歴史的背景について述べておくこととする。
200年間にわたってフランスを統治してきたブルボン王朝は、18世紀になって急速に衰退した。アンシャン・レジーム(※③)がもはや現実適応できなかったことや、度重なる戦争の失敗、宮廷の浪費など、原因はさまざまであった。18世紀後半には、フランス革命の気運が高まり、1793年には国王ルイ16世が処刑されるに至った。
イギリスでは、産業革命や農業革命などの変革が起こったものの、政治的には比較的安定が保たれていた。だが、フランス革命という歴史的事件が報じられて、英国民は大きな衝撃を受けた。なぜなら、これは絶対王政の崩壊を意味するからである。
社会が一変した時代に、既存の事物に対して懐疑の念が起こったことは、当然の結果であったと考えられる。この現象はイギリスに限られたものではないのだが、人々の心はバロックやロココの美術から離れていった。庭園に関しても、宮廷文化の象徴ともいうべきフランス式庭園は、もはや主流にはなり得なかったのである。
フランス式大庭園の流行が下火になると、別の設計技法がオランダから流入した。それは、1,2世紀頃ローマで流行した特別な刈込法で、オランダ人が尚古趣味で温存しておいたものである。このような庭園は、トピアリーと呼ばれ、黄楊(つげ)の木などの灌木を様々な形、殊に動物の形に刈り込んでいた。17世紀末からオランダ出身の王(※④)に統治されたことによって、イギリスにもこのトピアリーが広まった。
元来、直線や曲線に刈り込まれた植栽を用いるのは、植物と建築物の著しい形態の相違を和らげるためであった。しかし、トピアリーでは、植物に任意の形が与えられるのであり、そこには単なる遊戯的意義以外には何の働きもない。むしろ、形式庭園の美しい構成に混乱を投じる結果となり、ひいては形式庭園自体が魅力を失うことになったのである。
今まで述べてきたような要因の積み重ねが土台となって、イギリスで風景式庭園が発達し、重要な位置を占めるようになったと考えられる。
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※① フランス革命以前の旧体制
※② オランダ総督ウィリアム。1688年の名誉革命でイギリス王位に就き、ウィリアム3世となった。