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主体的に生きること

就職してからかれこれ10数年、学生の頃に持っていた自分の意思で道を切り拓いて行くという感覚ととんと無縁になっていた。

入社した会社の体質が、元々持っていた私の楽な方に身を委ねる性質とマッチしてしまったのか、誰かが決めてくれるでしょうと、決定権を明け渡してしまっていた。それは突き詰めると誰かが責任を取ってくれるだろうと思っていたということ。
会社では、コンプライアンスの名の下にどんどんルールが出来ていった。少しの確認も必ず上司を通し、幾人の判子がいる。そこでルールを逸脱するととんでもなく詰められる。なぜ、承認を得なかったのだと。

元々意見したり、新しいことをするのが好きだった私だけど、何か一つ始めるにも大仰なやりとりが必要だったり、根回しが必須だったりして、もう長い事様々のことを諦めてしまっていた。

会社にいる時間が長いので、少しずつ私のプライベートも侵食されていたようだ。
子供が生まれてからはそれがさらに加速し、自分が休日にしたいことの希望は胸に秘め、他の家族がしたいことを優先で決めていた。今日は何にも無さそうだぞ、と察しその希望伝えるのだ。
それは家族にとって失敗のないことと思っていたけど、果たしてそうなのか。


私はそろそろ自分を取り戻し、主体的に生きてみることにした。

それは我儘に生きるということではない。他を省みず自分勝手に生きるということでもない。

私の思う主体的とは、自分が何を好きで何が嫌いか、つまり自分を動かしている原動力は何かを知って、それを認めるということだ。

人は自分の好きなことでしか動けないと思う。そしてそれは流動的だ。
嫌だなと思っていたことも、別の一面を知りそれが自分の好きに繋がれば、やってみる価値があると判断して、行動できるようになる。


例えば、私は皿洗いが嫌いだった。シンクにどんどん溜まっていく皿やコップが雪崩を起こして、初めて渋々手を付けるそれくらい嫌なことだった。
今は皿を洗っている時間に好きなvoicyを聴いたり、バラエティを見たりする。そうするとただ好きでない皿をただ洗っているだけだった時間が、好きなことをしている時間に変わった。そして皿をその日のうちに洗っておくと、短時間で終わるし、次の日も何もない状態から料理が始められるので、効率が良い事がわかった。この自分にメリットがあるという状態を知り、継続することによって、皿は当日に洗うという習慣に変わった。


自分はこれから何がしたくて何をしたくないのか。むしろ何をしたくないのかをはっきりと自覚することで、物事の選択肢を自分で考え自分で決めていけるのでないかと思う。

ここまで考えて、選択肢を自分で考えるというのが私は苦手だということにも気づいた。無数に広がる選択肢の何が正解で何が不正解なのか分からないのが嫌なのである。
そして失敗した時に個人であれば自分が失敗したなぁで済むのだが、家族やもっと大きな集団の場合、責任を問われるのが嫌なのだ。

でも選択肢に正解も不正解もないことを、ここ数年で実感している。
何を選んでもその道の先にまた分岐が待っているだけだ。

あるのは正解や不正解ではなく、その選択肢はその先の人生にとって、やりたいことなのかそうではないかの違いしかないと思っている。自分の軸を決め、その軸の付近からブレなければ、それは自分にとって納得できる解になるのではないか。


この心境に至るまで、長い時間を使ってしまったけど、自分の人生において今が一番若い。

ようやく自分の足で一歩踏み出す準備ができた。

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