多分お笑いから派生して、市民権を得た言葉が気になる件
私は日本生まれ、日本育ちだけど、もう20年日本に住んでいない。海外在住日本人だからこそ、つい気になってしまう日本語がある。言葉は生き物だ。変わって然るべき。変化を否定したいわけではなく、やっぱり言葉って生きてるんだねと言いたいだけなのだ。そして、私が気になってしまう日本語の多くは、おそらくお笑いの世界から来た言葉なんじゃないかと思っている。これは正式な調査をしたわけではない。あくまでエッセイ。そのあたり、このまま読み進める方は寛大な心で聞き流して下さい。
そもそものきっかけは、大好きなミスチルのニューアルバム「Soundtracks」の配信が始まり、CDで聞いたけれど、改めてSpotifyで聞いていたときのこと。1曲目Dancing shoesという曲をきいて、あの違和感を思い出してしまった。
くだり
歌詞中、韻を踏むためにあえて使っているんだろうけど「後退りしたり、地団駄踏んだり、なに!?このくだり」というフレーズがある。そこでの違和感だ。でたっ、くだり!
この言葉自体の意味はわかる。くだりは文章の中の一部とか、件(くだん)という意味とか。三行半(みくだりはん)など、昔から使われている言葉なんだろう。しかし、20年前は今ほど聞かなかった気がする。実際に私も、昨年人生で初めてお笑い芸人さんを好きになり、お笑いの方々の会話をYouTubeなどで聞くようになり、ようやくしっくりきた言葉。芸人さんたちが「あのくだりが〜」ってしょっちゅう使うから、聞き慣れてしまったのではないか。
テレビをつければ、バラエティだけでなく、ニュース番組にドラマも。本当にたくさんの芸人と呼ばれる方々がテレビに出演されているのだから、彼らが普通に使う言葉が、世間に浸透するのは当たり前だろう。
やめてもらっていいですか
今はなれたけど、数年前は違和感でしかなかった。「〜するのやめてもらっていいですか」決して本当にやめてほしいわけでなく、冗談で言うやつ。やめて下さい。やめて欲しいのですが。ではなく、やめてもらっていいですか。なんとも不思議な(そして正しい日本語ではない)言い回しだ。誰が最初に言ったんだろう。
ネタ
ねたとは、題材という意味のねた、手品のしかけであるねた、刑事ドラマで刑事さんが言う「ねたはあがってんだ」とかのねた。意味も用途もたくさんあるけれど、カタカナで書く「ネタ」は漫才由来の意味が広く浸透していった言葉のように思う。そしてそれが派生して、ネタバレなんて言葉が生まれたのではないかと勝手に思っている。ネタバレ自体はお笑いとまったく関係ないところで生まれた言葉だけど、それを最初に使い始める頃に「ネタ」という言葉が影響した可能性はあるかなと。ネタバレって、わりと最近使われ始めた言葉。これも最初に自分で使うまでは、馴染まなかったな。
オチ
日本は1億2千万人総芸人化計画でも推進されているのかというくらい、最近は話にオチが求められるようになった。漫画や小説、映画、ドラマ、漫才ならオチは必要だけど、一般人の取り留めもない会話にオチなんていらないではないか。スピーチならわかる。校長先生の話も、結婚式の祝辞も、ぜひフリでもオチでもつけて、聞いていて面白い話にして欲しい。もしかしたら、大阪を中心とする関西では話のオチって、昔から大切にされていたのかもしれない。しかし最近、やたら「オチのない話」が敬遠されるようになった風潮は、すべらない話とかあのあたりの影響があるのではないか。そういえば、スベるという言葉もだいぶ市民権を得た言葉だな。
ツッコむ
ボケる、よりもツッコむという方が汎用性の広い言葉だ。一般人はあまりボケない。天然ボケが関の山。でも、みんなツッコむ。いつの頃からか、このツッコむという言葉を「訂正する」という意味で使いはじめていないだろうか。突っ込むという言葉に、訂正するという意味はない。でも「田中くんがAっていうから、思わずBでしょってツッコんじゃたよ」というように、田中くんがわざと間違ったわけではないにしても、(軽くもしくは冗談っぽく)訂正するという行為をツッコむと言うケースが増えてると思う。
漫才のボケ·ツッコミには様々なパターンがあるのだろうけど、片方がわざと間違えた言葉を、もう片方が訂正して笑いを生む漫才ってよく見る。だから世の中的に、軽く訂正するという意味でツッコむと使うんじゃないかな。
とまあ、言葉は生き物で、変わり続けていくもの。そしてお笑い用語は、音楽用語より、世間に浸透しているのではないかという話。作詞家として、言葉の動向には気をつけているつもりだけど、この先も気を抜けない。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?