少年になりたかった少女について
(最初に断っておきますが、LGBTQの話ではありません。)
男女問わず、さまざまな歌い手さんに歌詞を提供する作詞家soranoは、常々、心の中に4つの窓があると思っています。まず最初の2つは「少女」と「女性・女」です。少女時代を経て、大人の女性になったわけですから、これは至極当たり前の視点であり、感覚だと思います。子供のころ、十代のころの「少女」の思いを、もうだいぶ忘れてしまっていることはあるとしても、まだ自分の中に手触りがあります。
3つめは「人間」という窓。性別、国籍、年齢関係なく、人としての感覚を持っているつもりです。
最後の窓は「少年」です。当然のことながら、私は一度も少年になったことがないのですが、いつからか私は「少年」に憧れて、小さながらもそんな名前の窓を、自分の心に持っていると感じているのです。
私は高校生の時、軽音部に所属して、ギターを弾いていました。高校3年になり、部活を引退した後に、オリジナル曲を1曲だけ作りました。楽譜に書いたわけでもないのに、今でも歌詞とメロディーを覚えています。その曲の冒頭の歌詞がこんなふうで…
「少年になりたかった 心の奥の自由を手放せないでいる 生き急ぐこともできずに」
17歳の私、青い!ちょっと恥ずかしい!けれど、これってあの時の本心なのだと、今は思います。昔から私は、少年になりたかったらしいです。でも、私が思う少年って何でしょう?
私は作詞家ですから、どんな曲でも特に歌詞に注目して聴く癖があります。大人になってから作詞家になったのですが、勉強をしていく中で「これは私の中の少年が共感している」と感じる歌詞に出会うことがありました。
米津玄師さん、菅田将暉さんが歌った「灰色と青」ですが、こんな歌詞があります。「心から震えたあの瞬間に もう一度出会えたらいいと強く思う 忘れることはないんだ」
そして、東京事変の「閃光少女」奇しくも、これは少女がモチーフなのに、私の中の「少年」が共感したのはこの歌詞。「切り取ってよ 一瞬の光を 写真機はいらないわ 五感を持っておいで」
この2つ以外にもたくさんあるのですが、共感した歌詞から考えると、私は「少年」を「心が震えるほど熱い気持ちや瞬間」と捉えているのではないかと思います。そして、そんな気持ちや瞬間には、なぜか夏が似合うのです。古くは映画「Stand by me」、夏休みに上映される「ドラえもん」シリーズでも、「One Piece」シリーズでも、少年にはいつも何かしらの冒険が用意されています。少年は、怯むことなくその冒険に乗り出すのです。だからたぶん私は、冒険やワクワクを前にして、根拠のない自信とともに立ち向かっていく瞬間、その無敵感を、ずっと求めているのかもしれません。映画でも漫画でも、あの少年たちが羨ましいし、憧れる。
けれど、夏の終わりとともに、冒険は終わってしまうし、そんな冒険すら用意されていなかった自分に気づきます。そのときのもの悲しさをよく表現していると思うのがこちらの曲。
井上陽水さんの「少年時代」です。「夏が過ぎ 風あざみ 誰のあこがれにさまよう」陽水さんの歌詞は難解で、例えばこの「風あざみ」は造語であるなんて有名な話です。でも私が一番好きなのは「誰のあこがれにさまよう」という箇所です。憧れを追いかけて、彷徨って、途方に暮れる…なんともノスタルジックな気持ちが表現されています。
今年の夏も、恐らく私に、冒険は用意されていないのでしょう。それどころか、コロナ禍で職(旅行業)を失い、せっかく時間があってもどこにも行けず、今後のことを考えて不安を覚えながら、おぼろげに夏が過ぎるばかりです。砂漠の街に住んでいるので、海を見ることもありません。太陽だけが、例年通りの夏を演出しています。
けれど、そうやって落胆する夏を何度経験しても、私はまだ少年に憧れているのです。私のためだけに用意された冒険やワクワクに、いつか出会うはずだと、そっと期待しているのです。それは、宝島への地図ではないかもしれない。大人には内緒にして友達だけで旅をするわけでもないし、時空や世界線を越えるわけでもないでしょう。それでも、どこかに、ぐっと胸を熱くする何か、はあるはず。
いくつもの期待と、いくつもの落胆を繰り返して、心の奥に残った気持ちは「希望」です。尽きない憧れと、消えない期待です。だってまだ、来年も夏は来るのだから。人生の旅路は続いているのだから。
少年になりたかった少女は、ずいぶんと大人にはなりました。ずいぶんと月日は経ちました。今年も、平凡でつまらない夏が行きます。でも心のどこかに、少年を持ち続けているみたいです。まるで大事なお守りを捨てられないかのように。たぶん希望を持ち続けているかのように。