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 メキシコはコカコーラの消費量が世界一の国だそうだ。年間で国民一人当たり五〇〇本近くの消費量を誇る。赤ん坊や老人の分を減じて計算すると、一日に一人二本は飲む計算になる。それを聞いたときは、乾燥した国で昼間の強い日差しの下に飲むコカコーラは格別においしいのだろうと思っていたのだが、最近、本国アメリカに逆輸入されたメキシコ産コカコーラが売れているというニュースを知った。何でも、アメリカ産に比べて炭酸が少なく、甘味料にコーンシロップではなくサトウキビやテンサイなどの砂糖原料を使用しているため、甘さが強いのだそうだ。そしてこれは、コカコーラ発明当初のオリジナルレシピに近いらしい。いまやサトウキビはコーンシロップよりも高価であるが、昔のアメリカでは当たり前のように使用されていた。現在のメキシコの安価な労働力と物価がそれを可能にしているのだろう。より原始的なのだ。合理化、効率化に乗り遅れている反面、そのものの本質と言ったら語弊があるが、それが発明された際の「想い」みたいなものが失われずにいるように感じられる。私個人としては炭酸の強い日本のコカコーラのファンであるが、それはより現代の嗜好に合わせて改善した成果だ。ただ、後進国に行って飲むコカコーラはまた違った味わいがある。そこにはより、手に取って確認できるような形でのロマンが残されているように感じる。

 メキシコは敬虔なカトリック信者の国である。スペインから伝わったものだが、より原始の宗教を色濃く残しているように感じるようになったのは最近のことだ。それまでは、キリスト教のオリジンであるイタリア、スペイン、フランスのそれが本来のカトリックだと信じて疑わなかった。ただ今は、メキシコのカトリックのほうがオリジナルに近いのではないかと思ってしまう。ヨーロッパの教会には、信仰そのものの周辺に付随する余計な物事が分厚い脂肪のようにこびりついていて、その核とも言うべき精神が視認し難くなっているのだ。

 大学生のときに、自宅の近所の本屋で一冊の写真集を衝動買いしたことがある。題名は『ウルトラバロック』 小野一郎氏の作品だ。写真集といってもサイズがコンパクトな単行本だった。その頃はロシアの古典文学を好んで読んでいた時期で、トルストイの『アンナ・カレーニナ』を買いに行ったときのことだ。何故そんなことを覚えているかというと、そのときを最後に新たにロシア文学を読むことは(現在まで)なかったからである。そのとき買いそびれた『アンナ・カレーニナ』は未だに読んでいない。

 その写真集はかなり有名な写真集だったのだろう。単行本の形式で出版されていたし、埼玉県の小さな街の本屋に並んでいたのだから。もっともその本屋はとても志の高い書店で、一九八〇年代には珍しかった郊外型の大型書店で、広い駐車場、広い店内通路、ジャンル別・出版社別の区分け以外の並べ方など、とても新鮮で店主の意志が感じられる書店だった。そこで私の人生にとって大切な本を何冊も見つけた。『ウルトラバロック』の表紙にはメキシコの教会内部の写真が使われていて、帯には「横尾忠則氏絶賛」とあり、序文は学者の中沢新一氏が書いていた。(当時トレンディーだった二人の知識人だ。) その帯にも序文にも大した感慨は抱かなかったが、私を釘付けにしたのはその写真だった。血の涙を流す褐色の肌をしたキリスト、スペースというスペースを埋め尽くしたグロテスクな装飾、不気味な無数の赤ん坊の頭部(天使か?)が、私の脳をかく乱して目を離せなくしていた。

 建築におけるバロック様式は十六世紀ルネッサンス期のイタリアで生まれ、スペインに渡った後にイスラム様式のモザイク、アラベスク模様、タイルが組み込まれるようになり独特のスペインバロックが出来上がる。壁中を埋め尽くした装飾模様は見るものに畏敬の念を抱かせる。それをつくらせた、そしてつくった人々の信仰と信心深さに自然と敬意を抱いてしまう。この感覚は日本の日光東照宮などを見ても同じように生まれる。

 『ウルトラバロック』とは小野一郎氏が名づけた名前で、スペインバロックが植民地であったメキシコやペルーに渡って、メキシコ土着の宗教とカトリックが融合したように建築様式も融合した。基本はスペインバロックであるが、模様は更に複雑化し、褐色の肌をしたキリストやマリア、聖人、天使たちがその壁、天井にまで埋め尽くした。葡萄をモチーフとしたバロック装飾はメキシコのフルーツに変わり、大理石は黄金に変わった。聖人たちは髑髏を抱き、天使には胴体がない。(顔と羽根だけ) 私の描いていたキリスト教教会とは全く異なるその雰囲気は、何か見てはいけないものを見てしまったような感覚を私に与えた。

 結局、『アンナ・カレーニナ』の替わりに買ってきたその写真集を手に帰宅した後、一週間、ずっとその写真を眺め続けた。電車の中でも、授業をサボって寝転がる気持ちのよい陸上競技場でも、就寝前のベッドでも。いくら眺めていても何故か飽きなかった。そこに写っている装飾の数々には、それぞれの「想い」が込められていて、無垢な美しさを発散していた。人々は仕事、義務感でそれをつくったのではない。信仰から来る純粋な「想い」からつくられたのだ。だからこそ、隙間という隙間を探しては装飾を施したのではないだろうか? 少なくとも、そんな風に見えた。そこには純粋な信仰がある。

 その写真集の衝動買いから二十年が経った。残念ながら本自体は何度かの引越しの際になくしてしまったが、いまでも大切な思い出として残っている。思い出に残る買い物には、衝動買いというケースが少なくない。確かに購入した後に後悔する衝動買いもあるが、思わぬ転機をもたらしてくれる衝動買いが多いのは事実だ。そしてそれは洋服や靴に関しても言える。特に靴は洋服以上にその可能性が高い。何故なら靴は、その人生を歩む過程が一歩一歩刻まれていくものだからだ。是非後悔を恐れずに靴の衝動買いをしてみていただきたい。そんな際に、「合わせずらい」「すぐ流行遅れになる」「仕事で履けない」等、いろいろな声を聞く。現実的には最もな憂慮だと思う。しかし、もしかしたら自分の転機になるかもしれない、一生の思い出になるかもしれないと考えれば、決してリスキーな投資ではないはずだ。自分の感性と直感を信じて、悔いのない靴選びをして欲しい。いや、最も残念なのは、買ってする後悔ではなく、買わずにそのまま通り過ぎてしまう「可能性」のほうだ。皆にとって、一度しかない人生なのだから。

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