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オーストラリア

 二〇一〇年、シーシェパードというアメリカの動物愛護団体が日本の調査捕鯨船を妨害していたことがニュースになった。実際には監視船への攻撃という犯罪行為によって大きなニュースになった。この団体に港を提供し、このテロを行った小型高速艇を発進させたのがオーストラリアである。それまでも、オーストラリアは日本の調査捕鯨に対しては一貫的に攻撃的な態度をとってきたが、この事件でさすがにその機運もひと段落したようだ。しかし、この国際捕鯨問題は各国の利害が入り混じって一層、複雑化して来ている。

 私も含めて、捕鯨といわれてもピンと来ないという人が多かったのではないだろうか? 私に関して言えば、鯨の肉はこの三十年食べていないし、小学校低学年の給食メニューにあったのをかすかに覚えているくらいだ。なので、アメリカやオーストラリアの(我々に対する)非難を聞いていると、何だか別世界のことのように思えてしまうが、これは現実の深刻な問題なのだ。

 現在、捕鯨推進国は日本、ノルウェー、アイスランド、ロシア、カナダなどで、反対派はその他の多数、その急先鋒がアメリカ、ニュージーランドとオーストラリアである。(ただし、アメリカは自国アラスカ先住民のエスキモーに関しては、絶滅危惧種を含めて全ての捕鯨を認めている。) 日本は現在、一切の商業捕鯨は中止し、生存数の多いミンク鯨などの調査捕鯨のみを行っている。まだまだ解明されていない鯨の生態などの研究・調査が目的ということになっている。もちろん、必要のない部分がほとんどなので、それらは国際規約に則って国の管理の下、魚市場や他の流通にまわされている。鯨からは食用の肉以外にも、鯨油、ひげなどの副産物がとれる。これら日本の態度は大変礼儀正しいものだ。ノルウェーは商業捕鯨を再開し、カナダは捕鯨委員会自体を脱退してしまっている。正直、原理原則に従えば、一〇〇年前(イギリスやアメリカなど、現在の反捕鯨国がシロナガスクジラの乱獲を始めた頃)と比べて増えすぎている種の鯨のみに限った商業捕鯨再開という日本側の主張は正しいと思う。それに対してオーストラリアは、絶滅の危機云々の問題ではなく、鯨は特別に知能の高い可愛い哺乳類だからいかなる捕獲も許さないと言っている。増えすぎたカンガルーを国の政策で殺している国らしい言い分だ。賛成、反対ともに言い分や論拠は様々だが、調べてみると、日本側の本音のひとつには、鯨の増加による漁獲量減少の危惧のようだ。裏返すと、捕獲した分の鯨が食べるはずだった魚が獲れるということだ。ある調査によると鯨の食べる魚の量は全世界の漁獲量の三倍から五倍との結果が出たそうだ。まあどの程度正確なものかは分からないが、その数字だけ見せられるとちょっとびっくりする。では全世界の魚全体はどれくらいいて、鯨がどれくらいの割合で我々人類が食す魚を食べているのかはよく分からない。よくあるレトリックなのか。

 そしてオーストラリアの本音はというと、これが良くわからない。オーストラリアにとって鯨が、インドにとっての牛のように特別な動物だとは思えないし、ノルウェーやカナダの捕鯨は批判していないのも変だ。白人至上主義による日本人差別だという人もいるが、政府が堂々とそんな感情をむき出しにするとも思えない。とりわけ批判的なニュージーランド、アメリカと同様にオーストラリアも日本への牛肉、穀物の大輸出国ばかりなので、捕鯨のせいで自国経済が危うくなるからだという人もいるが、これもちょっと納得できない。捕鯨した肉が牛肉の替わりになるはずもなく、量もせいぜい知れている。
 ひとつ言えるのは、オーストラリアの対日感情が悪化しているということだ。私が中学生であった一九八〇年代前半には、地理の授業で「オーストラリアは大変な親日国です。大学で選択する第二外国語で最も人気のあるのは日本語です。」と教わったものだ。今は中国語に変わっているのであろう。オーストラリアがオセアニアで生き残っていくために必要なアジアとの連携を考えて、中国に乗り換えたというのは言い過ぎではないだろう。

 捕鯨反対をはじめとして、動物愛護を強硬に訴える人の多くは、程度の差こそあれ、ベジタリアンだという。程度の差というのは、卵や乳製品を食べたり食べなかったり、ゼラチンをどう捉えるかとかそういったことだ。とにかく肉と魚は食べない。そして厳格なベジタリアンは革靴を履かない。宗教上の理由でなく、信条としてベジタリアンになった人は、だんだんと厳格になる傾向があるらしく、いずれは革靴を履かなくなるらしい。これはちょっと悲しい。確かに現在は合成皮革と呼ばれる化学製品の進化も成されてきてはいるが、どう進化しても、逆立ちしても天然皮革には追いつけない。それに合成皮革の開発にはたくさんの動物皮膚実験が必要不可欠です。布の靴は寒くて湿った土地では非機能的だし、ゴムの靴は蒸れて水虫の天国となる。そしてどれもエコロジーからは程遠いものだ。

 我々人類は、まだ宗教的なべジタリズムなんてものが存在する前から、食肉の副産物である革とともに生きてきたのだ。革は呼吸し、伸び、縮み、屈曲に強靭に耐え、水を遮断し、蒸気を逃がし、熱の調節をし、人間の身体に溜まる静電気を地面に通電し、そのうえで年を経るごとに美しくなる。植物でなめされた革はその役目を終えた後では完全に土に還る。医療における最高の人工皮膚が人間の(実際の)皮膚なしではあり得ないのを見れば明らかだが、革は靴の素材としてはまず最高のものである。

 私はこの職業についてからは意識して牛肉を食べるようにしている。私の扱う革製品は圧倒的に牛革が多いからだ。もちろん豚革も羊革も扱うので、すべての肉を意識して食すようにしている。ヤギは食べないのでなるべく扱いたくない。爬虫類は別として、我々が扱う哺乳類の革のほとんどが、食肉の副産物として生まれたものだ。革のために哺乳類を殺すことは私も罪悪のように感じる。だからこそ、それらの肉を天の恵みとしてありがたくいただく。それが動物の魂にとって最高の供養だと信じる。二〇〇九年からは我々の店で扱う馬革の割合が飛躍的に大きくなったので、機会があるたびに馬刺しを食すようにしている。高価な場合も多いが、いくら食べても食べ飽きないくらい、とても美味しい。可愛い馬や牛だからこそ、最後までしっかりと食べたい。もしアラスカに行く機会があれば是非アザラシの肉も食してみたい。(少量だがアザラシの革も扱っている。)

 ベジタリアンの方の信条、心情は理解するが、出来れば人類の叡智である革靴を毛嫌いしないで欲しい。私があなたたちの分まで食べますから。

 余談だが、一九四〇年前後には鯨革の靴というのがあったそうだ。戦時体制で牛革や豚革が庶民の靴にまでまわらなかったのだ。戦争の話だ。

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