【エッセイ】#32 心の状態と文章と
心の状態によって文章は大きく影響を受けることはよく知られている。
有名な作家や文豪が名作を生み出すことができたのは、ココロの状態が充実していたからこそ、又は不安定であったからこそといわれてもいる。
世界に希望を持ち、新しい世界の創造をするかの如く、生まれた小説、世間と他人の心に絶望したからこそ執筆できた人間心理を問うエッセイなど、あなたも心当たりがあるのではないだろうか。
大作家や文豪と同じとはいえないが、私だって少なからず心の状態が文章に現れることは多分にある。
気分がいいときには、ノリノリの文章になるし、落ち込んでいる際には、どよんと澱がたまったような文章にもなる。それぞれにいい部分があるので、私は文章に向かう「いま」の心の状態を大切にしたいと思う。
先日、ある人にいわれたことだ。
「白明さんの文章はときに相当の澱や深い闇がある。通常の記事や音声配信などでお話をしている感じからは、想像できないくらいのモノだ。だから正直、あなたという人間がつかみきれない」と。
おっしゃる通りなのだなと思う。
もしかしたら音声配信などは、聴視者に向けて発信しているため、いわゆる「ソトヅラ」で話していることが多い。
一方、文章や記事に関しては、自分の内面や本心をつづれているように感じる。いわば「さらけ出している」状態なのだろう。だからこそ、心の状態がモロに文章にでているのだと思う。
「ソトヅラ」で加工されている状態とは違う、生の私と出会えるのは文章なのかもしれない。
私はどちらかといえば、感情ベースで行動していることが多い。
こと文章に関しては特にこれであることがほとんどだ。
だからこそ、私の文章を読み、不快になる方々も多い。
いい大人なのだから、少し気を付けた方がいいといわれそうだが、そこを削ってしまっては私のいい部分が失われてしまうと思う。
少し鼻につくと感じるかもしれないが、ご愛敬と、お付き合いをいただければ幸いだ。
「あ、今日はテンション低い日なんだろうな~」とか、想像しながら読んでもらえると幸いでございます。