天才と、私。
私は自己評価が低い。ただし不当に低いわけではない。冷静に、社会的に見て、自分がどの程度か理解しているだけである。
実際に社会的評価が低いのだから、自己評価が低いのは正常な事である。
頻繁に記事の中で自己卑下はするが、それは「ああ、才能のある作家が羨ましい。売れ過ぎちゃって税金対策で家を買って弟子に格安で貸していて、弟子が稼げるようになったら格安で譲り渡そうなんて、凄いじゃないか。飛び抜けてんなぁ。それに比べて自分は」とやっているだけで、ただの酔っ払いの愚痴である。
本気ではないのだ。
今さら描きたいわけではないし、名誉欲も無いし、ましてや誰かに貸す家を買いたいわけではない。
ただ、凄いなぁ、と思っているだけだ。
聞けば、大抵は実家に恵まれている。それが羨ましいという所に落ち着くのは、外的要因により自分の才能は充分に伸びなかったと言い訳すれば自分が慰められるからであり、本気ではない。
現状が実力である。
環境もまた才能の一部だ。運命の一部と言ってもいい。
とにかく、自分は選ばれた側ではなかった。
それだけの事である。
貧しい日陰に落ちた種は、貧相にしか育たない。日陰の貧しい土壌でこそ逞しく育つ種もあるが、それはそういう類であって、私の好みではない。
誰がどうであろうが、大した問題ではない。
ただ我々のような凡愚は、運命に選ばれた天才を「羨ましい」と言って酒の肴にするだけである。それは嫉妬と呼ぶには遠過ぎる関係だ。
自己評価が高過ぎる人のほうが懊悩を抱えて苦しむのではないかと思う。
天才と自分を比較してしまう。
天秤に乗せてしまうのだ、天才と自分を。
そんな事をしたら何が起こるのか明白ではないか。
天才の側に天秤は傾く。
だって、天才のほうが存在価値が重いから。当たり前である。人は平等だと言われるが、そんな事はない。やはり価値の高い人間は居るし、そうでもない有象無象も居る。私は有象無象である。天才が優遇されるのは当然だ。お先にどうぞ、である。天才と自分を比べる事などバカバカしい。ましてや張り合おうなどと思わない。それが普通だ。
それなのに、わざわざ天才と自分を比較する人がいる。
何故そのような自傷行為をしてしまうのか。
それは、自己評価が高過ぎるから。
自分を天才だと思っているから。
現状が実力である、と思えない人は、そういう事をする。
過去に遡っても、その時々での現状が実力だったのだ。良い時は実力があったのであるし、衰えたから転落したのである。
メンタル強度も実力のうちなので、メンタルのせいで転落したとしても、それも実力である。
現状が実力であると受け入れれば、非常にスッキリする。
「僕が評価されるのは死んだ後だと思っていました」と某氏が言ったのだが、それを聞いた周りのほぼ全員が「こいつ、自分が評価される事は疑っていなかったのか」と愕然とした。
天才とはそういうものである。何かが違うのだ。我々凡愚が努力してなれるものではない。本人がすでに他と何かが違うから、おのずと作品も他と違う異彩を放ち際立って魅力的になるのだろう。売れて当然の人が売れる。
もっと言えば、天才はずっとソレをやっている。手を止める事は(成功して地位を確立して余裕が出来て油断が生じて問題が湧き起こって……という事はあるが、成功するまでは)ほぼ無い。成功していないのに手が止まってしまったなら、成功に値する才能は無かったのだ。私がそう。
自分を正当に評価しているので、その部分が弱点になる事は無い。
卑下してはいても、それは酔っ払いの愚痴で、言いたいから言っているだけであり、何らかの変化や改革を求めているわけではない。
自己評価が低過ぎるわけではないので、誰に何を言われようと此処より上がる事は無いし、逆に、下がる事も無い。
天才と、私。
まったく別種の人間だ。時に道行が重なる事もあるが、しょせん、それだけの縁であって、天才を見たからといって自分が天才になれるわけではない。
気にするだけ損である。