新編『銀河鉄道の夜』を読んだ。

今回読んだ本は『銀河鉄道の夜』だけではなく、その他の短編がいくつか、宮沢賢治が書いた時系列順に一緒に収録されていた。
宮沢賢治作品を教科書以外で読むのは初めてで、冒頭はかなり手触りを確認しながら読んだ気がする。

一番初めに載っていたのが『双子の星』、『銀河鉄道の夜』は中盤の方にあって、ラストが『ビジテリアン大祭』で終わる。(←これは時系列には関係ないらしい。)

読み始め頃の印象は、おとぎ話調で、すごく繊細で幸せな世界を描いていながら、苦というか負の感情の表現がやたらリアルで何だか読み進めてはいけないもののような気すらしていた。
「尋常ならざる闇(?)がある」みたいな感じだった。うーん、闇と言うよりとんでもなく絡まった糸の、もはや線ではなく塊のようなものがずーっとそこにある、ただある、存在感を放ち続けている、みたいな。

諸々の短編を総合して思ったのは、銀河鉄道の夜で出てきた「ほんとうの幸福(しあわせ)」というフレーズが多分全部物語っていて、よだかの星も、オツベルと象も、ほとんどの作品でやたら悲しい瞬間があるけど、物語の最後が悪者を退治して終わっても或いは最後に命尽き果てて終わっても、その両方が必ず“しあわせ”な瞬間に出会っている、ということ。目で見て感じて「あぁ、もう満足だ」と言わんばかりの具合になってる気がする。

「ほんとうにかあいそう」と、セリフ外でも作者が度々言っている。↑になぞらえて言うなら、手にしていたしあわせを無くした、消え去った、という感じだろうか。そんな悲哀のようなものを受け取った。

何でこんなに悲しいシーンをつらつらと書いているのか、考えてみた。
最初は、(物語上)つらいことがまずあって、そこから今までのそれを忘れてしまったかのように次のしあわせの方向を見始めた、ように見えたんだけど、今思えばつらい状態から脱出したわけではなくて、つらい状態 “でありながら” “その中にある(で見つけた)” しあわせを見ていたんじゃなかろうか。
つまり、“しあわせ” 単体を見ているのではなく、“かあいそう” の中にある “しあわせ” を見、それについて綴っているのではないか。
(この考えが正しければ、それぞれは不可逆であるということも書かれていた…はず。)

まだ宮沢賢治作品に触れ始めたばかりなので、他にもじっくり味わっていきたいと思う。

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