社会のウェルビーイングは主観的満足度の集計によって測定できるのか?
ウェルビーイングという言葉、この概念ほど今後の社会で重要でかつ、定義が難しいものはない。私は今回このウェルビーイングについて、厚生経済学の視点から考えた。
今回取り上げる論考は「なぜWell-beingを「幸せ」と訳すのでは足りないか?」という、労働政策研究・研修機構という独立行政法人のJILPTリサーチ・アイに掲載されたものである。
筆者は日本におけるウェルビーイングの概念について整理し、日本におけるウェルビーイング概念の危うさについて指摘している。
早速だが、ウェルビーイングとはなんだろうか?Well-beingをオックスフォードディクショナリーで調べると、以下のように定義している。
general health and happiness
emotional/physical/psychological well-being
to have a sense of well-being
健康と幸福、感情的、肉体的、心理学的な幸福、幸福感を持つこと。幸福とは何か?この問いに答えるのは容易でない。ただ、幸福を要素に還元することは定義に近づくための手段と言える。
国や国際機関が様々なウェルビーイングのフレームワークを提唱しているが、ウェルビーイングという概念の定義において、それを構成する要素が定まることはないと思うし、そうであるべきであるとも思う。
さて、ウェルビーイングを評価するひとつのフレームワークとして、国際的にはOECDが策定した"Better Life Index"という指標がある。これに基づいて加盟各国のWell-beingを評価、公表している(OECD, 2020)。
このフレームワークにおいて、まず現在のウェルビーイングを測る指標として、Current Well-beingという領域を定義している。
具体的には「所得と富」「雇用と仕事の質」「住宅」「健康状態」「知識と技能」「環境の質」「主観的幸福」「安全」「仕事と生活のバランス」「社会とのつながり」「市民参画」これらの度合いを計測することで、今(Current)のウェルビーイングを計測する。
次に将来のウェルビーイングをのための指標としてResources for Future Well-beingを定義する。ここでは「自然資本」「人的資本」「経済資本」「社会関係資本」というリソースが挙げられており、これらを将来的な幸福に影響するフローもしくはストックとみなして、計測している。
例えば、経済資本においては、固定資本生産や政府の金融純資産、家計の負債がOECDにおいて相対的にどのていどの順位か、改善しているのか、悪化しているのかを示すことで、将来のウェルビーイングがどのような方向に向か、そのためのリソースがどの程度あるかを見える化している。
たとえば、日本の幸福度は以下のように評価されている。https://www.oecd.org/statistics/Better-Life-Initiative-country-note-Japan-in-Japanese.pdf
Better Life Indexによる評価において日本は中下位にランク付けされる。教育や仕事、安全は中位より高くランク付けされるが、「ワークライフバランス」そして「市民参画」は最下位を争っている。
日本のウェルビーイングの状況についてここではコメントはしない。ただ、日本が幸福度の高い国ではないということは、自殺率の高さや失われた何十年、デフレという日本を特徴づけるキーワードから言っても多くの国民が納得する事実だろう。
今回は、そもそもウェルビーイングは測れるものなのだろうか。という問いについて一つの意見を述べたい。
ウェルビーイングは本当に主観的に測定可能なのか、相対的に測るものなのだろうか、そして、還元主義的に検討されるウェルビーイングを構成すると考えられる各要素は果たして本当のウェルビーイングに繋がっているのだろうか?
センの潜在能力アプローチとウェルビーイング
筆者は日本は「主観的ウェルビーイング」に重きを置いていると論じる。
事実、内閣府が打ち出す「満足度・生活の質を表す指標群」において、OECDのBetter Life IndexでCurrent Well-beingとして測定されている要素はすべて「全体的な生活満足度(総合主観満足度)」に集約されている。
これはつまり、主観的満足度を高めるという目標があって、それをブレークダウンしたものが「住宅」「安全」「健康状態」というウェルビーイングたらしめる要素があるという考え方である。
主観的満足度を高めるということ自体は非常にわかりやすい。これはOECDにおいても「主観的幸福」という要素はCurrent Well-beingに挙げられてることからも、重要な視点であるという意味においては、共通認識であろう。
しかし、主観的満足度を目標とすることには危うさがあると筆者は指摘している。なぜ主観的満足度を目標とすることには危うさがあるのだろうか?
これは、ウェルビーイングを主観的な幸福度や満足度による評価という側面だけで判断してはならない理由として、本人の主観が本当に満足しているかが客観的にはわからないためである。
どういうことだろうか?ここで、「すっぱい葡萄」というイソップ童話について紹介したい。
ものすごく端的にまとめると、ある日、ぶどう園を通りかかった狐がぶどうを食べたいのに、どうあがいても届かない。最終的に狐はどうしたのか?「あんなぶどうは酸っぱいに決まってる」と言って立ち去るのだった。
これは、厚生経済学において一回は取り上げられる例え話である。
何が言いたいのかというと、人間本当は欲しいのだけれども、能力が劣っていたり、環境が劣悪だったりすることによって、自分には手に入らないものだと最初から諦めたり、元々欲しくないと言って肯定する。
誰しも一度はこういう自己防衛的な思考をしたことがあるのではないだろうか?この寓話からイメージを現実世界のものに落とし込んでみよう。
世界には宗教により女子は学校に行かせないという状況がある。女子は、親や家計、宗教のことを考えて、本当は学びたいけれど我慢するという状況がある。それでも「本人は良いと言っているのだからそのままで良いのだ。選択したことなのだ」という解釈で良いのだろうか?
それでは、このように宗教により選択肢を奪われている彼女の主観的幸福度が、自由な国で存分に選択肢を与えられている裕福な女子と同じアンケートで、どちらも10段階中6をつけたとしたら、「どちらも同じくらい幸福なのだ」という結論は正しいのだろうか?
この話は、経済学の厚生経済学という一分野において「帰結主義と非帰結主義」や「厚生の個人間比較」というトピックとして、中心的な議論となり続けていた。
1994年にノーベル経済学賞を受賞したアマルティア・センは、この分野を代表するインド出身の経済学者である。センは、インドの貧しさを目の当たりにしたときに、現代経済学では解決し得ない問題があるという問題意識を持ったことに始まる。
センは潜在能力アプローチという概念を提唱し、その後の国際開発に多大なる影響を与えた。
経済学における効用批判において、人間の主観(効用や満足度)は必ずしも客観的な状況の反映ではないと論じ、福祉国家の経済学と倫理学について新たな視点を提供した。厚生の個人間比較不可能性に基づいた現代経済学とは全く相反する新しい概念であった。
話は長くなってしまったが、この帰結主義的な考え方というのは、そもそもがウェルビーイングの考え方と矛盾するのだという指摘をしておきたい。
そう、センの潜在能力アプローチという概念から、国連の人間開発指数(HDI)やジェンダー開発指数、ジェンダーエンパワーメント指数、ジェンダー不平等指数などが影響を受けている。
医療においてはクオリティー・オブ・ライフ、質調整生存年、健康寿命といった新しい指標に影響を与えている。つまり、現在のウェルビーイングの基礎的なフレームワークはセンの哲学と密接に関わっている。
こうした背景から、主観的幸福度の概念が最上位の概念にすることというのは、深く考えれば正しくないどころか、ウェルビーイングを誤って解釈する可能性をはらんでいるという指摘をしたい。
幸せは個人間での比較が可能か?
次に、日本が主観的幸福度を重視する理由として、客観的なウェルビーイング指標として測定しやすく、定量化がしやすいという安直な理由があるのではないかという点について論じたい。
ウェルビーイングを指標化することは難しい。
どの指標が重要かを決めるのためには、何がウェルビーイングに影響を与えているかを決める必要があり、そもそもウェルビーイングとは何かという定義をしなければならない。だが、それはある意味でウェルビーイングのために何が必要で、何が必要でないかを選別することであり、すべての人の幸福度を網羅的に要素として取り上げることは現実的ではない。
一方、個人の主観的幸福度や満足度は非常に計測しやすい。
単に本人に「あなたは幸福ですか?」と聞けば良いだけだからだ。次聞いたときに幸福度が上がっていれば、ウェルビーイングは改善しており、下がっていれば、ウェルビーイングが悪化していると言える。
しかし、主観的幸福度がそのようにデータ化しやすいものだとしても、個人の幸福度を測る以前に、何が私そして我々の幸福なのかを決め、初めて自分がその意味での幸福に向かっているのか、遠ざかっているかを判断できるのではないだろうか?
つまり、自分の考えるウェルビーイング、地域の考えるウェルビーイング、国の考えるウェルビーイングがあり、それぞれのレイヤーにおいてウェルビーイングが定義づけられる。
それがあるからこそ、自分のウェルビーイングに近づいたか遠ざかったか、国の考えるウェルビーイングに近づいたか遠ざかったかが判断できるわけで、単に「あなたは幸福ですか?」という質問から全体のウェルビーイングが計測できるという考えはナイーブだ。
また、個人の満足度や幸福度が他者と比較できるものなのだろうか?それともできないのだろうか?それが定量化(基数的効用)できるのであれば、ジェレミー・ベンサムが説いた功利主義であり、経済的に合理的な主体において、価値は個人間比較は可能と言える。
個人間比較不可能だったとしても社会全体の主観的幸福度を集計するという試み自体何らかの社会的厚生関数に基づいた厚生の評価をするということにほかならない。
その際に、単に主観的幸福度を計測しただけでは、その効用をどのように持つに至ったか、その背景についての情報は持ち合わせていない。
生まれながらにして宗教的な理由により選択肢を奪われている人にも個人の幸福度さえ教えてもらえれば厚生が測れるという考えに同意するならば、それは一つの解と言えるのだろうが・・・
私はやはり、単に個人の幸福度を教えてもらうことで社会全体のウェルビーイングが測れるのだとしたら、それは、人間の選択や自由に対するより広範な考察を減ることなしに、単に計測しやすい数字に落とし込んでいるだけなのではないかと考えてしまう。
「個人の幸福度は比較できる。いや、個人の幸福度は比較できない」
「その幸福度に至った理由を知りたい。権利や自由があったかどうか」
「選択肢がどれだけあったか、選択手続きはどうだったか」
ウェルビーイングの指標化において、全体的な生活満足度として、総合主観満足度を用いるとしたときに、これらの規範的評価をどれだけ検討したのだろうか?これを検討せずに、社会的厚生関数を定義せずに、社会全体のウェルビーイングを定義することは可能なのだろうか。
規範なきウェルビーイングの指標化は、いわば「なんとなくの個人の感想の集合」でしかない。ウェルビーイングは単に、国民に「幸せですか?」と尋ねれば良いものではないだろう。
どうしたらこの社会において、私、そして周囲の人、全員がより幸せになるのか、幸せだと感じられるのか。こうしたより骨太の議論と熟考なきにして、アンケートの結果ウェルビーイングが改善した、悪化したと一喜一憂するようであっては、本当のウェルビーイングは実現できないのだ。