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責任は勝手に消えてはくれないのであるからして、無視し続けたそれは誰かにのしかかる。

『責任』という概念が大好きな僕なので、SDG'sのNo.12『つくる責任、つかう責任』は心の底から大切な事であると思っている。
これからを生きる世代のために、この限られた資源の中で責任感を持って生活し、バトンを渡してゆかねばならない。

しかしながら、お偉方のおじさんおばさんが『つくる責任、つかう責任』を主導し、お偉くないおじさんおばさんが『つくる責任、つかう責任』を若者達に説いているのを見ると薄ら笑いが起きる。
というのも、彼ら彼女らは『つくってきた責任、つかってきた責任』にはダンマリを決め込んでいるからだ。

若者や子供達に対して、この世界的な問題を自分ごととして捉えて主体的に問題解決に取り組むことを促す活動自体に異を唱えたいわけではない。
確かに、若者達はこれからの自分たちの言動を『責任』を持って選んでいかねばならない。

だがしかし、取り返しのつかぬ地点の手前でバトンを渡した方々が『責任』という概念を固い、大切なものをとして伝えるには、一度精算せねばならないはずだ。
もうすでに、これまでの作れ使えの言動の良い面を享受してしまっているのであるからして、尻拭いをうやむやにしてこれからの事だけを声高らかに主張するのはいささか『無責任』だろう。

上の世代が言う
『今があるのは、こうして育ってこれたのは先代たちの弛まぬ努力があればこそ』
との言には同意しているし、尊敬と感謝の念も持っている。
だが、その言の本質的な点は
『今の世の中を作ってきたのはこれまで生きて来た人間である』
と言う点である。
つまり、その言は限界手前の世界という事実の上には
『この様な世の中になってしまったのは自分たちのせいである』
と言う意を内包しているのだ。
下の世代に対して本気でそう言うのであれば、しっかりと自分たちの作った世界の悪き面と向き合わなければ嘘ではないか。

こと日本においては『ハラキリ』という悍ましくも潔い責任の取り方があったのに、誰も彼も自腹すら切らなくなってしまった。
お金がそんなに大切ならお金を食べて生きてくれないものか。
であればSDG'sにも貢献できる。
嫌ならカーボンオフセットみたいな詭弁を弄するのではなく、もっとしっかりと我慢していただきたい。
忘れないでもらいたいが、SDG'sなる施策の観点からだけ見れば、口減しは解決法の一極を成しているのである。

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