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2024年12/14(土)第8週 Vayishlach ヴァ=イシュラフ 送った(創世記1〜6章)
こちらのパラシャからメッセージをいただきました。
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https://note.com/zion_bridge/n/nc8b4f9df23b9
・Torah トーラー(モーセ五書)
創世記32:4〜36:43
・Haf’h ハフタラ(預言書・諸書)
オバデヤ書1:1〜21
・B‘rit Chadasha ブリット・ハダシャ(新約聖 書)ヘブル11:11〜20
:トーラーの主なストーリー:
1、エサウとの再会
2、ベテルでの出来事
3、イサクの埋葬
〜34章のストーリー〜
パダン・アラムからヤコブ一族(後のイスラエル民族)がカナンの地を目指して戻って来てから、シェケム(地名/新約時代のサマリヤのスカル。現在のパレスチナ自治区ナブルスのあたり)の一部を買取り、滞在していた時、娘のディナが土地の有力者の息子ヒビ人シェケム(個人名)に性的暴行に遭う。
シェケムはディナを愛するようになり、ディナとの結婚を願い、民族的婚姻関係を申し込む。ヤコブの息子兄弟達はその提案を男子の割礼を行うという条件によって受け入れると伝える。
ところが、ディナの兄弟レビとシメオンが騙し討ちを行い、割礼を行ったシェケムの一族の男性全員を滅ぼしてしまう。それだけではなく、最終的に町全体を略奪してしまった。
しかし、その策略はレビとシメオンの独断によるもので、ヤコブの意向ではなかった。ヤコブは2人を叱責し、自分達がカナンの土地の人々から憎まれる者となったことを嘆くが、シメオンとレビはディナが被害にあったことを容認していいのかとヤコブに問う。
〔この章のポイント〕
・聖書の記述にはレビとシメオンの反論に対してヤコブの答えがないため、一見、ヤコブが実利主義で本質的道義はレビとシメオンにあるような印象を受けるが、創世記※49章のヤコブの息子達への辞世の祝福を見ると、そうではない側面が伺える。
・神の視点ではどのように見えているだろうか。
※< 49章 5-7 >
5 シメオンとレビの兄弟、彼らの剣は暴虐の道具。
6 わがたましいよ。彼らの仲間に加わるな。わが心よ。彼らのつどいに連なるな。彼らは怒りにまかせて人を殺し、ほしいままに牛の足の筋を切ったから。
7 のろわれよ、彼らの激しい怒りと、彼らのはなはだしい憤りとは。私は彼らをヤコブの中で分け、イスラエルの中に散らそう。
⇧
この49章で使われている「暴虐」という言葉は、創世記6章のノアの時代に「暴虐が地に満ちていた」という記述に使われている言葉と同じ「ハマス」という言葉である。
これらを覚えながら、このストーリーにおける登場人物達の状況の中での変化を見ていきたい。
A )シメオンとレビ 善なる者から悪い者へ
「創世記34:7 」
7 ヤコブの息子たちが、野から帰って来て、これを聞いた。人々は心を痛め、ひどく怒った。シェケムがヤコブの娘と寝て、イスラエルの中で恥ずべきことを行ったからである。このようなことは許されないことである。
・①情報を聞いた→ ②心を痛めた→③怒った
男性は、傾向として、②のステップを飛ばしがちだが、ヤコブの息子達はディナの悲しみに寄り添うことができる者達であり、妹の悲しみに寄り添う良い兄達であることがわかる。
しかし、ディナに獣のような行動をしたシェケムへの怒りに身を任せて、報復心の赴くまま、自分達も獣のような蛮行をしてしまった。
怒りにおいて、ミイラ取りがミイラになったと言える。
ヤコブはこのことを覚えていて、49章の辞世の時のシメオンとレビへの祝福が祝福とは言えない預言になっている。
B )シェケム 犯罪者から悔い改めによって愛する者へ
「創世記34:3 -4
3 彼はヤコブの娘ディナに心をひかれ、この娘を愛し、ねんごろにこの娘に語った。
4 シェケムは父のハモルに願って言った。『この女の人を私の妻にもらってください。』」
・ディナをレイプするというシェケムの行動は犯罪だが、その後、ディナへの純粋な愛が生まれている。3節の「この娘を愛し」にはヘブライ語「アハーブ」という言葉が使われており、アブラハムからイサクへの愛、イサクからリベカへの愛、ヤコブからラケルへの愛と同じ言葉である。
また、ディナもシェケムの愛を受け入れていた様子がある。というのは、同3節の「ねんごろに語った」とはヘブライ語での直訳では「その心に語った」という意味があり、ニュアンスとして、一方通行の愛ではなく、双方向の意思によって成立する意味での文章である。ディナはシェケムの愛に対して心を開いていたことが伺える。おそらくシェケムはディナに対し悔い改めと真摯な謝罪をしたので、ディナがそれを受け入れたことが推測される。
そして、ヤコブ達の信仰によるしきたりである割礼をも受け入れ、寄留者であったヤコブ達と一つになる覚悟もできていた中で、不意を突かれて殺されてしまった。
シェケムの行為は、古代の倫理観の中では死に値する行為かもしれないが、シェケムに同情する余地もあるのではないかと思われる事件だった。
上記AとBの登場人物について、善悪の状態と時間の変遷を、縦軸を善(上部)悪(下部)、横軸を時間とするグラフによって整理してみると、「よい兄から蛮行者へ転落したシメオンとレビ」と「犯罪者から悔い改めて良い道へ向かおうとしたシェケム」がX状の対比を作って描かれていることがわかる。
C) ヤコブ 無関心な傍観者
・34章の登場人物として、本来最も重要なポジションであるはずのヤコブはどうであったかをみると、ディナのために心を痛めた兄達に対し、ヤコブのディナへの心情は記述されていない。
また、シェケムの父ハモルは、シェケムからの相談を受けて、今後の対応について、まず、「ヤコブと話し合うために出てきた」とあるが、ヤコブ自身の返答の記述はなく、ヤコブの息子達が答えている。
これらのことから、34章全体を通して、ヤコブの無関心な傍観者としての立ち位置が浮き彫りになっている。
そして、シメオンとレビへの叱責についても自分達がカナンの地で憎まれ者になってしまったことと、他民族から攻撃されたら自分達は少人数なので殺されてしまうという、的の外れた苦情になっていることが見える。
最後のシメオンとレビの問いにも答えていない。
本来、ヤコブは責任ある父親として、族長として、息子達に言うべきことがあったはずであり、それは49章のシメオンとレビへの預言の言葉であった。
ヤコブは、息子達に言うべき時に、言うべき言葉を言わなかった。
言えなかったのか、言わなかったのか、ヤコブがディナに対しても、息子達に対しても、一貫して無関心で傍観的な父親であり、良いか悪いかと言われたら、悪い父親であり続けているということは、他の登場人物が、神の視点から見ると、時空と善悪というグラフにおいてXを描いている中で、34章の出来事を善悪の軸の「悪」を平行に最後までまっすぐ辿っている構図になっている。
34章を見て行く中で、最後の疑問「私たちの妹が遊女のように扱われてもいいのですか」への答えとして、「このようなことが起きてもいいのか=罰しなくていいのか」を、誰が正しくて、誰が間違っていたかという問いに集約するならば、誰も正しい人はいなかった。義人は誰もいないということである。
聖書は、出来事や人物から見習うべきこととして学ぶべきこともあれば、こうあってはならないという反面教師として学ぶべきことも書かれている。
「まとめと感想」
>義人は誰もいないということである。
人間は誰もが故意的にはもちろん、悪を行っていると無自覚のままに罪を犯すものでもある。
だからこそ、私たちには、イエス様の十字架、血の贖いが必要なのだ。
>聖書は、出来事や人物から指南として学ぶべきこともあれば、こうあってはならないという反面教師として学ぶべきことがある。
聖書の出来事を、現代の私たちの歩みに適用しつつ、自分の感情や衝動をおさめながら、聖霊に導かれて生きることが、イエス様を信じて救われた者の生き方となる。
私たちが、34章の出来事から学ぶのであるならば、まさに、反面教師として、衝動や怒りを治める大切さを知ることである。
そして、今、自分は、善悪の軸と時間の軸というグラフの、どこに位置するのかを俯瞰的に把握することも大切である。
それは、神様が私達を見守る眼差しでもあると感じる。
私達は、シェケムがそうであったように、悪から善へと向かうことができるし、神様もそのように働き、私達を引き上げようとしてくださる。それは神様が「贖う神」だからである。
なぜ、神様は「贖う」のか?
それは、神様が「愛」だからである。
神様は「愛の対象」として、「愛そのものである」ご自分の形に似せて人間を創られた。
私達人間とは、人と人の間に置かれるからこそ「人間」である以上、人の状況や心に関心と共感を持ち、寄り添うことなく「愛そのものである神」の似姿としての存在を表すことはできない。ここにおいて、ヤコブが「悪い」とされる所以である。
メシアニックの概念として、「善悪」また「聖と汚れ」は、「神の心」に即しているかどうかが基準となる。
続く35章では、誰も義人はいなかったにも関わらず、神様は、ヤコブの「不安」に怯える心に関心を持ち、あわれんで、周りの町々に恐怖を送り、ヤコブの一族が襲われないように守った。
神様は、罪を決して不問にはされない。
しかし、たとえ、罪を犯す者であっても、神様の愛とあわれみは尽きないことを、心に留めておきたい。
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