見出し画像

30年という節目、伝えることの難しさ

当時10歳未満だった子どもたちは現在30〜40歳となっているかと思います。体験しているとはいえ、あまり現実感をもって阪神・淡路大震災を捉えることができていなかった方もいるのではないでしょうか? ましてや1995年1月17日以降に生まれた人にとって、それは「生まれる前の出来事」で歴史上の出来事となってしまっているのではないかと思います。

また、当時を「現役世代」として体験した方々の多くが定年を迎えるなどしているかと思います。人口構成比的から考えても、実感を伴って振り返れる人はどんどん少数派になってしまう歳月が経過したことになります。

災害、防災、復旧・復興に興味を持っていない限り、自分には関係ない“歴史“だと感じている人が大半でも何ら不思議はない状況だと思いますが、忘れていいことではないと思います。

それは前向きな理由からです。


忘れてはいけない理由

歴史は繰り返す、と言います。昨年元旦に発生した能登半島地震においても、阪神・淡路大震災との類似点がいくつかありました。ということは過去の災害で何があったか、そしてそれにどう対応すると被災を免れたり、災害被害を軽減できるのかということがわかるということです。

類似点1:1月に起きた地震であるということ

阪神・淡路大震災の発生は1月17日でした。その年の成人の日が日曜日だったため、月曜日が代休となり、その翌日でした。流石に正月気分はそろそろ終わりでしたが、1月というめでたい月に起きたことにショックを受けました。能登半島地震は1月1日。よく警句として使われていた「災害に盆も正月もない」というフレーズが文字通り起きてしまったわけです。

類似点2:大火災

阪神・淡路大震災の犠牲者の約8割は建物倒壊と家具の転倒などによる圧死です。けれども印象に残っているのはいつまで経っても消火できずに燃え続け街をそっくり焼き払ってしまった火災の映像でした。能登半島地震においては、輪島市の朝市が焼け落ちてしまいました。


震災と火災により被害を受けた町(画像:アフロ)

避難所の混乱

阪神・淡路大震災は戦後の大都市で起きた初めての大地震だったことや、阪神間の人が「この辺には大きな地震はない」となぜか信じ込んでしまっていたこともあり、大混乱に陥り、避難所も体育館に土足で上がり込み、移動用の通路もなくみんながてんでに雑魚寝し、トイレもあっという間に汚物まみれになってしまい、環境が劣悪だったことが伝わっています。その後災害のたびに避難所の環境については「土足禁止」「通路確保」「トイレ対策」など少しずつ改善が図られていたのですが、能登半島地震では「30年前に戻ってしまった」という言葉を聞きました。元日の災害ということもあり、帰省していた人や観光客を加え、避難者の人口が膨れ上がったことも理由の一つとされていますが、いずれにしても劣悪な環境の避難所という残念な共通点ができてしまいました。

伝えることに成功している「えちごせきかわ大したもん蛇まつり」

一方でどんな災害がいつ起きたのか、という伝承に成功している例もあると聞きます。それが新潟県の岩船郡関川村で行われている「えちごせきかわ大したもん蛇まつり」です。1967年に発生した羽越大水害の伝承を目的としています。

祭りは1988年から始まり、地域住民が協力して大蛇を製作し、担ぐことで地域の結束を強めています。54の集落が協力して大蛇を作る過程は、地域社会の絆を深める重要な活動です。大蛇は長さ82.8メートル、重さ2トンで、竹と藁で作られています。その長さは、羽越大水害が発生した日付である8月28日に由来しています。この水害では、31名が亡くなり、多くの家屋が全壊するなど、村に甚大な被害をもたらしました。したがって、大蛇はこの災害の象徴として位置付けられています。

写真提供:東北大学災害科学国際研究所 佐藤 翔輔准教授

被災時の支援に重要と言われる地域社会のきずなを深めながら、災害の記憶を風化させないことができている事例です。

いいなと思ったら応援しよう!