共同体を生きるヒトは、本当に伴侶を求めているのか。|エッセイ
現在に生きる人間は、その多くが社会という名の共同体にて生活を送るものである。だが果たして人間は、本当に自分以外の人間と共に生きていくように出来ているんだろうか。多くの『自分以外』とという意味ではなく、それぞれの家庭(住処)を作るための『伴侶』として。
人間の核となる(ものだといわれる)精神ってやつは目に見えなくて、だからこそ理解しあうために言葉が必要になっていて、その言葉すらも国によって違うし地域によって違うし、なんなら個体によって内包する意味は違う。
身内の結束を固めるためといってしまえばそれだけの仕様かもしれないけれど、分かり合うためにそこまで努力しないといけないなんて、どういう意図なんだろう。相手を選別するため? 篩にかけるため?
そんなめんどうなことをせずに理解し合えて一緒にいられるならば、共存を前提とした生命体なのだと納得できるのに。けれどめんどうを経ないことには、愛着だとか情だとかいうものは芽生えないのだろうから、試練を乗り越えるための設定だと考えれば共存を前提としているのか。
つくづく人間は不完全だ。
自らと完全に一致する人間は自らしかいない。自らに足りない部分を求めるというのならば、その溝を埋めるための行程が必要で、自らもまた相手の不足を埋める必要がある。相互の道筋が一致しているか確かめる術なんてないに等しいのに、確かめつつ進めなければならない。
どうしてどうして、忍耐と努力が不可欠な構造だ。
伴侶を選ぶためには、身体だけではいけない。感情だけでもいけない。理性だけでもいけない。
この人だ! と決めても、なにがしかの変化によってはころりと変説する。それを成長と呼ぶか裏切りと呼ぶかは状況次第だろうが、変化には違いない。それくらい不安定で曖昧な『決め手』。いったい何をどう信じればそれを貫くことができるのか、示すことが困難な『決断』。
それらを維持し、あわよくば高めていくことの、なんと難しいことか。地球上に存在する人間以外の生命体で、同じくらい難解な試みを経て種の存続をしているものがあれば教えてほしい。
精神というものは、なにもかもをややこしくさせる。だから人は煩悩に囚われ、地獄を夢見て罰をおそれる。
もっと単純であればよいのに。
けれど複雑に生まれついた種族の末端を担う私は、きっとそれでは満足がいかないのだろう。
これほどまでにすべてをこんがらがせておいて、本当に人間は、ヒトは、伴侶を求めているのだろうか。種の存続にとどまりそうもない目的を掲げて生きる、その果てにはいったいなにが待つのか。
真に求めるものを見つけるためには、ひとまずこの複雑奇怪に整った道を進むしかないのだろう。
……なにが言いたいかって、恋人の転職が不安だという話です。