出会った日の寄り道 #月刊撚り糸
その人とはじめて会ったのは、なんてことない寄り道でのこと。夏服がないと思って買い物に来たのはいいけれど、大荷物に炎天下がきつくてわたしは早々に音を上げた。とにかく涼しいところに入りたい、とその一心だったのだけれど、頭の片隅に住むミス倹約が、カフェなんてとこに入るなよ〜無駄遣いだぞ〜、と囁いている。そんな彼女との妥協案として許されたのが、入場無料の展示会場で、そこが運命の場所だった。
灰色の小さなビル。ガラス張りの扉を通った1階。受付らしき綺麗な服を着たお姉さんが、にっこりと微笑んでどうぞ〜と歓迎してくれる。涼みに来ただけなんて、なんだか悪いことをしているような気になった。ひとまず微笑んで軽く頭を下げ、よっこいせと紙袋を持ち直す。きょろきょろとあたりを見回すと可愛らしいオブジェやぬいぐるみが目についた。入口付近には小物が展示されていて、奥には絵が飾ってあるみたいだった。あっちに行けば椅子があるかもしれない、なんて安直なことを考えてわたしは奥に向かう。
そこで、わたしは雷に打たれたような衝撃を受けた。
仕切りに遮られて、やや封鎖されたスペース。外からは見えないそこに飾られていたのは、1枚の大きな絵だった。
暗い海。月も星も映していないのに、ちゃんと色があって光がある海。
——なんだこれは。
わたしの心を支配したのは、わたしの中の誰かの声だった。こんなの見たことない。でも知っている。わたしはこの景色を、ずっとずっと知っている。
立ち尽くすわたしは、さぞ奇妙に見えたに違いない。けれどそのときは、そんなことを考える余裕なんてなかった。
「えっと、あの、すみません」
唐突に低い声が耳に入って、わたしははっと内面から立ち戻った。弾みで肩が大きく揺れる。そうだった紙袋をぶら下げていたんだった、と思い出して大荷物を咎められたのかと怯えるわたしに、声をかけてきた男の人は、この絵を描いた人だと言った。
そのときのわたしの表情をわたしは知らないけれど、ものすごく莫迦みたいな顔をしていたに違いない。
その男の人はひょろひょろと細長い身体付きで、肩幅だけがしっかり広かった。細面に太い黒縁の眼鏡をかけて、神経質そうな切れ長の目がその奥で瞬いていた。
脳内を素通りして一周して戻ってきた名乗りをやっと理解して、わたしの顔に一気に血が上った。なぜなのかは知らない。頭の中にはその絵がこびりついていて、それが目の前の男の人と重なって、訳も分からず懐かしくて嬉しくて恥ずかしかった。
「自分の絵をこんな熱心に見てくれる方っていないので……、つい声をかけてしまったんですけど——」
「あ、えっと、あの、すみません、ちょっとコンビニに行ってきます……!」
穏やかにかけられた言葉を遮って、テンパりきったわたしが言ったのは、そんな莫迦みたいな言葉だった。彼はちらりとわたしの手荷物の量を見て怪訝そうな顔を見せる。
「えっと、お荷物多いみたいですけど……」
「あ、置いていきます!」
「え? はい?」
彼がきょとんと瞬く。それはそうだろう。けれどわたしは、そんなこと構ってられなかった。彼の前から逃げるのに必死で、それでもここに戻ってくる理由が欲しくて必死で、燃えるような顔を手で煽ぎながら、場所を知りもしない用事もないコンビニに走った。炎天下に無用な寄り道ではあるけれど、そんなの気にならないほど、わたしの顔も身体も燃えるように熱かった。
***
「ちょっとコンビニ行ってくるわ」
冷蔵庫を覗いて彼が言う。黒縁眼鏡の奥で切れ長の目が気怠げに瞬いた。
「あ、うん、行ってらっしゃい」
わたしはソファでくつろぎながら、その広い肩幅を見送る。わたしたちの家から徒歩5分の距離にあるコンビニ。3ヶ月前わたしが目指したコンビニより格段に近いし、なによりこの季節はもう涼しい。シュークリームを買ってきてくれないかなあ、なんて思うけれど、頭の片隅に住むミス健康が、こんな夜中に食べると太るわよ〜肌荒れするわよ〜、と囁いている。同感だから彼におねだりはせず、わたしはストレッチに励む。
あの夏の日は運命だった。あの日のわたしがまるで別人であったかのように、今のわたしはあまりに自然にここにいる。広い部屋。油絵の匂い。寝室に仕舞われた、暗くて明るい海。
このままここにいれば、いつかあの海を渡れるだろうか。遠い記憶の声を聞けるだろうか。
「ただいまー」
低い声が戻りを告げる。彼が買ってきたのは、わたしがあの寄り道で買ってきた、シュークリーム。
【完】
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