角を曲がったところにあったもの|ショートショート #月刊撚り糸
「ね。別れよっか」
笑顔でそう告げられたとき、俺はとても間抜けな顔をしたと思う。何を言われたのか、何と言われたのかにわかには理解できなくて、驚きすらもまだ訪れていなかった。
「へっ?」
俺たちは一緒にNet○lixで映画を観て、お茶を飲みながらだらだらしていたところだった。映画はふたりとも好きなアクションもので、面白いねと笑顔で話をした。いつも通りの日常、この1年間一緒に住んで馴染んだ日常そのままだった。
なのに架寿実(かすみ)は、いつもと変わらない笑顔で、言葉の爆弾を放ってきた。
「え? ちょっとどういうこと?」
もう一度問う。ミルクティーの入ったマグカップが手元で揺れて、慌てて机に戻した。
「別れよっか」
架寿実の手は震えもせず、滑らかな動きでマグカップを扱った。こくり、とホットのレモンティーを飲み込む口で、彼女は先ほどと同じ言葉を告げた。
「え、な、なんで?」
公平に考えて、俺が戸惑うのも無理はないと思う。俺たちは最初に結婚する約束をして、両方の親に挨拶もして、それで一緒に住み始めたはずだ。
——具体的にいつ結婚するかという話はしていなかったし、最近は結婚という言葉すら会話に出ていなかったけれど。
「人生ってさ、角を曲がったところにふっと幸せが落ちていることなんて、ないんだなあと思ったの」
架寿実は微笑んでいる。もう見慣れた可愛らしいすっぴんで、寝巻きにしているワンピースを着て微笑んでいる。右手の薬指には、半年前——28歳の誕生日にプレゼントした指輪が輝いている。
その彼女の話している意味が分からなくて、俺は思わずその肩に手を伸ばした。拒否はされない。
「え、どういうこと」
「ん? そのまんま。なんか、待ち続けてることに疲れちゃって」
俺は慌てて頭を回転させる。手は彼女の肩を掴んだまま。
「俺が待たせてるってこと?」
あはは、と彼女は俺の目を見て朗らかに笑った。
「違う違う。角を曲がったら幸せが出てこないかなあって期待するなんて、待ちの人生じゃない? わたしそんな感じだったなあって」
あ、これは、と思う。結婚の話だろうか。結婚しないなら別れるという、巷でよく聞くあれだろうか。穏やかに笑む彼女からはなにも読み取れなくて、慎重に口を開いた。
「結婚……のこと? 最近話してなかったから……?」
架寿実は柔らかな表情で少し首を傾げて俺を見る。それが答えだった。咄嗟に口が開く。
「——! 結婚、する! しよう!」
そう告げた俺の目を見て、前髪の下で彼女の眉が微かに下がったように見えた。
「ううん。諒(りょう)ちゃん、結婚したくないんでしょう」
「そんなことない! 結婚するって約束してたし! しよう!」
勢い良く答えたが、今度こそ架寿実の眉は下がった。困ったような、呆れたような、そんな顔に見えた。なんだか見たことのある顔だな、と思ったら、最近ふとしたときにほんの一瞬、彼女が覗かせていた表情だった。
「無理してほしいんじゃないの。すぐにしてってお願いしたいわけじゃないの」
「じゃあ……!」
「諒ちゃんが今したいと思わない、それがもう答えだと思うの」
淡々とした、いっそ優しささえ感じる声音に、俺は黙った。黙らざるを得なかった。
「一緒に住んでるって、ほとんど結婚と変わらないよね。わざわざ結婚を選ぶ必要性が見つけられないのも分かる。でも、最初っから言ってるけど、私は結婚したい。1年一緒に住んで、わたしはもう、すぐにでもしたいって思ってた」
過去形で告げられる思いは残酷だ。現在から既に距離を置かれた言葉に、追いつく言葉を見つけるのは難しい。
「諒ちゃんはそうじゃない。それがもうタイミングで、すれ違いで、決定打だと思う。正直この1ヵ月賭けてた。一緒に住んで1年の節目だし、話が出たりしないかなって」
架寿実は澄んだ、子どものような目で俺を見た。泣き虫の彼女の目に、今透明な膜は張っていなくて、それが覚悟のようで俺の目が揺れた。
「結婚してくださって頼みこみたいわけじゃないの。お願い事をしたいわけじゃないの。無理してほしいわけじゃないの」
「無理してない」
即答で本心から言った俺に、彼女はまた微笑んだ。いつか一緒に観た映画に出ていた、ヒロインのような微笑だった。あの映画の結末はどんなだったっけ。
「わたし、諒ちゃんのこと好きよ。あなたはそんなことないと思うけど」
さすがに放置できない言葉に、俺は顔色を変えた。怒ってもいいことだと思ったけれど、怒りはなかった。
「好き! 架寿実のこと好きだから一緒に住んでるし、俺だって結婚したい」
すぐに、の言葉が出なかったことにはっとした。俺の「したい」はいつを指すのだろう。結婚とは、覚悟ができてからするものだと思ってきた。覚悟とはなんなのか。俺にそれができるのは何年後なのか。
「ありがとう」
きれいな諦めを含んだ声で架寿実が告げる。かつて、20代のうちに子どもを産みたいと言われて俺が賛成したときと同じトーンで。
ああ、と思う。彼女はずっとどこかに諦めを内包しながら俺といたのだ。俺をそれを知らないふりをして、違う方向を向きながら彼女の隣にいたのだ。いつの間にか、別々の角を曲がっていたふたり。映画にしたら滑稽だろう。
その夜、俺たちは手を繋いで眠った。穏やかに寝息を立てる架寿実を見て、ほんの少し涙のようなものが出た。そうまでなるのに、覚悟を決め切ることのできない自分が不信で不審で堪らなかった。
***
架寿実は2日後に家を出た。いつの間にか持ち物の整理を始めていたようで、簡単に荷物をまとめるだけで準備は終わった。実家に帰る彼女と相談して、一緒に買った家具は俺がそのまま使い、代わりに彼女の引っ越し費用を負担することになった。
ひとりになった部屋はがらんと広くて、残された家具には余裕がありすぎて、ふたりの大きさを実感してまた少し涙のようなものが出た。それなのに日々は続いていくわけで、俺の気持ちなんて置いてけぼりにして時間は進んだ。恋人を探そうという気にもなれず、ひとりで過ごすうちにいつの間にか昇進が決まって昇給が決まった。家族を持つには充分な年収を約束されたその日に、やけ酒を飲んで酔っ払った。
彼女との別れから3ヵ月後、俺は決めた。今更かもしれないが、彼女を迎えに行こうと。待ちの人生をやめたいと言った彼女のように、俺も待つのをやめようと。彼女が角を曲がるその先にいるのは、俺でもいいんじゃないだろうか。
今度こそ覚悟を決めた俺は、だからこそ受けた衝撃も半端なものではなかった。
坂を登って角を曲がったところ。一緒に住む前、彼女に連れられて訪れた『彼女の実家』の表では、まったく見知らぬ女性が子どもと一緒に植木に水をやっていた。表札には「垣谷」とある。彼女の苗字は「宮間」だ。脳内でクエスチョンマークがぐるぐると回る。
俺は人見知りをする質なのだが、他にどうしたらいいかも思いつかず、誰かも分からぬその女性に声をかけることにした。
「あの……、すみません……」
「はい?」
こちらに顔を向けた女性は、俺よりも若く、親切そうに見えた。薄らとメイクが施された顔。一緒に顔を上げた男の子はくりくりとした目で興味深そうに俺を見ている。
「ここに以前住んでいた家族の知人なんですが……、いつ頃引っ越しがあったのかご存知ですか……?」
「え?」
明らかに不審な俺の問いに、女性の目が丸くなった。ついでその目が僅かに細められる。やはり不審者だと思われただろうか。俺は慌てて身を引いて両手を顔の前で左右に振った。
「あっ、いや、急にすみません! ここに以前住んでいた宮間さんの知り合いで、久々にご挨拶しようと思って寄ったら表札が違っていたのでっ!」
仕事柄個人情報の取り扱いに厳しかった彼女の顔を思い出す。苗字くらいなら会話に出してもよかっただろうか。いや、住所も合わせてだからだめだろうか。ああ、きっと怒られるんだろう。でも構わない。
「ああ——」
得心したように女性が頷く。ぎゅっと子どもの手を握ったように見えたのは気のせいだろうか。
「宮間さん……、わたしたちの前に住んでらしたご家族ですね。ご挨拶したので存じてます」
俺はほっとした。もしかしたら、どの辺りに引っ越したかも聞けるかもしれない。
「お引っ越しされたのはもう5年ほど前なので——」
かなりお久しぶりだったんですね、と続けられた言葉はまったく頭に入ってこなかった。
「ご、5年前!?」
思わず発した声が裏返る。5年前だなんてそんなばかな話があるものか。挨拶をしたのはだって——。
「ええ、わたしたちが越してきて、再来月でちょうど5年になるんですよ」
子どもの手を握ったまま微笑んだ女性の顔が遠く見える。
挨拶に来たのは5年も前じゃない。なのにこの人は5年前から住んでいる? ここにあった、俺が訪問した宮間家は? 彼女の実家ではなかったのか?
けれど俺は確かに、この家に上がってお茶をもらって挨拶したのだ。坂を登って角を曲がったところ。彼女の説明通りに今日もここまで来た。
なのにこの女性は子どもの手を握って微笑みながら、わたしたちはここに住んで5年になるんですと言う。
どう挨拶してどうやって家に帰って来たのか、俺は思い出せない。彼女に会いに行ったはずなのに、なぜこんな結果になったのか。
角を曲がったところにあったのは、幸せでも未来でもなく、拒絶や過去ですらなかった。
俺が求めた彼女はどこにいたのか、そして今どこにいるのか。そもそもかつて一緒にいた彼女は、本当に俺と一緒にいたのか。
なにもかも分からない。ただひとつ分かるのは、俺にとっての彼女が失われたということ。それだけだった。
【完】