そこにつくる想い|ショートショート #月刊撚り糸
じわりじわり、とその感情はわたしを浸食した。だれもなにも悪くない。ただタイミングが悪かったのだと、そう叫びたかった。
「ね、別れよっか」
わたしがそう告げたときの彼の表情を、よく覚えている。鳩が豆鉄砲を食らったような、と言うのがぴったりな、なにがあったのか分からないという顔をしていた。
「へっ?」
その表情が愛おしくて、微笑んだ。なぜだか分からないふりをした涙を零すまいと堪えた日々の終焉が笑顔だなんて、秀逸すぎる。
「え? ちょっとどういうこと?」
諒(りょう)のマグカップを握る手がちょっと震えて、愛おしくて悲しかった。
「別れよっか」
重ねられた問いに、答える言葉は本当はなかった。別れを告げたのは、空気に押されたから。わたしを浸食する感情や感傷を、もう抱えられなかったから。でもそれすらも本当ではない気がする。だからわたしは、温かいレモンティーを飲み下して、言葉を繰り返した。もう後戻りできないことを、自分に教えてあげるために。
「え、な、なんで?」
諒は動揺している。それもそうだろう。1年一緒に住んだ恋人から唐突に別れを切り出されたら、だれだって動揺する。そう思う反面、なぜ兆候を見つけられなかったのかとなじりたい気分になる。そう、そういうところだった。ずっとわたしをじわじわ浸食してきたものは。
「人生ってさ、角を曲がったところにふっと幸せが落ちていることなんて、ないんだなあと思ったの」
自然と言葉が出てきた。わたしはずっと、いつになったら彼がわたしの望む幸せをくれるのかと待ち続けてきた。わたしの望む幸せなんて、彼のそれとはイコールではないのに。そんなもの、ひょいっと落としてもらえるわけがないのに。
いつものことだけれど、わたしは言葉足らずなのだろう。彼はまだ理解できない顔をして、瞳を揺らしながらわたしの肩に手をかけた。この1年、ずっと傍にあったぬくもり。どうしようもなく心地よくて、身を預けたくなるのをぐっと堪えた。
「え、どういうこと」
「ん? そのまんま。なんか、待ち続けてることに疲れちゃって」
またも重ねられた問いに、なんでもない風を装って答える。彼に責を感じさせたくない。でも彼を責めたい。嫌味っぽい言い方、とまた揶揄されるかもしれないなと思っても選べない言葉に、せめてもと乗せる温度だけは軽やかにする。
「俺が待たせてるってこと?」
案の定わたしは彼を責めてしまったようで、思わず彼の目を見て声を立てて笑った。揶揄じゃない。わたしは揶揄なんてしない。
「違う違う。角を曲がったら幸せが出てこないかなあって期待するなんて、待ちの人生じゃない? わたしそんな感じだったなあって」
わたしの可愛い諒ちゃん。すべてはわたしの勝手なの。自分勝手に期待して、自分勝手に失望した、わたしはそこまで未熟だ。
「結婚……のこと? 最近話してなかったから……?」
微笑んだまま首を傾げる。彼はきっと分かっているんだろう。結婚すると口約束して一緒に住んで、互いの親にも挨拶して。なのにこの半年間、具体的な話をなにもしてこなかったこと。わたしが水を向けても、あなたはのらりくらりと交わしてきたこと。
「——! 結婚、する! しよう!」
なのに今更そんなの言っても遅い。その瞳は相変わらず揺れているし、そんなの見れば、いっときの気の迷いで断言していることはばればれだ。だからわたしは、この3ヶ月間ずっと感じていたことをついに言葉にした。
「ううん。諒(りょう)ちゃん、結婚したくないんでしょう」
「そんなことない! 結婚するって約束してたし! しよう!」
明らかに、自分の眉が下がったのが分かった。そう、こういうところだった。義務でわたしに向き合おうとするところ。彼にとってそれは思いやりなのかもしれないけれど、わたしにとっては違う。
「無理してほしいんじゃないの。すぐにしてってお願いしたいわけじゃないの」
「じゃあ……!」
「諒ちゃんが今したいと思わない、それがもう答えだと思うの」
決定的に思いが違うし、タイミングが違う。
「一緒に住んでるって、ほとんど結婚と変わらないよね。わざわざ結婚を選ぶ必要性が見つけられないのも分かる。でも、最初っから言ってるけど、私は結婚したい。1年一緒に住んで、わたしはもう、すぐにでもしたいって思ってた」
思ってた。自分で告げた過去形に、自分で悲しくなる。なんてエゴまみれの人間なんだろう。そのエゴをえぐって、わたしはずっと思っていたことを告げる。わたしはあくまで、平等な関係でいたい。望まれたからそうしてあげた、だなんて思われるのはまっぴらごめんだから。それがわたしの、変なプライドの高さだとしても。
「諒ちゃんはそうじゃない。それがもうタイミングで、すれ違いで、決定打だと思う。正直この1ヵ月賭けてた。一緒に住んで1年の節目だし、話が出たりしないかなって」
わたしの秘密の賭け事を告白する。なんて運命任せの他力本願。それこそがタイミングだと信じた結果がこのざまよ。
「結婚してくださって頼みこみたいわけじゃないの。お願い事をしたいわけじゃないの。無理してほしいわけじゃないの」
「無理してない」
打てば響くように返ってきた言葉に笑みが漏れる。諒はいつも、わたしが頼みごとをしたときにそう言う。やるのは負担じゃない、でも進んではやらない。わたしのために、わたしが頼むから、やるだけ。
浸食される感覚が強くなる。ここまで来たら、きっともうわたしは戻れない。
「わたし、諒ちゃんのこと好きよ。あなたはそんなことないと思うけど」
これも、ずっと言わずにいた本心だった。ああ、わたしはどれだけ、彼に言わなかった本心を抱えているのだろう。
彼は、付き合っているからわたしを大切にしてくれただけ。わたしを好きでわたしが大切だからそうしてくれるんじゃない。想いの順番は正直なものだ。わたしの確信に、諒は顔色を変えて反駁した。
「好き! 架寿実のこと好きだから一緒に住んでるし、俺だって結婚したい」
彼の言葉はきっと嘘じゃない。けれどわたしの希望する「すぐにでも」の言葉は得られなかった。諒の言う「結婚したい」の輪郭は掴めず、近い将来の匂いがしない。彼が決意するのは、覚悟を決めるのは、いったい何年後なんだろうか。それまでわたしは待てるのか。もう2年もしないうちに子どもを産みたいと望んでいるのに。
きっと無理だろうなと思う。彼はとても優しいけれど、自分の気持ちを待つ人だから、言葉の輪郭が固まるまでわたしの言葉をはぐらかし続けるだろう。意に沿わずわたしは待ち続けるだろう。そしてそれに見合うだけのリターンを無言で求め続けるだろう。
そんなのどこも平等じゃない。
「ありがとう」
恋人同士であった期間も、今も。
可愛くて大好きな諒ちゃんの、失意が現れた表情を見ても、涙は出なかった。
手を繋いで眠った温度はもう他人みたいで、こわばった左側ばかりがじりじりと灼けるようだった。
***
「と、いうことがありまして」
シュン、と我ながら効果音が出るのではないかという態度で告げた言葉に、カフェで向き合った佐奈(さな)は呆れた目を向けてきた。
「わっがままね」
「仰る通りで」
家を出るまでは無我夢中だった。2日という短い期間ですべての段取りをつけるのは――事前に備えてあったとはいえ――身体も心も疲弊する作業だった。そしてわたしは抜け殻になった。
あんなに結婚と出産に焦っていたのに、今はもう誰を見ても、お先にどうぞ、という気持ちになる。なんなら、どうぞどうぞ! と前のめりにその道を譲りたいくらいだ。
——譲れる道すらもう、ないのだけれど。
以前までは羨ましく見ていた佐奈の子どもも、今となってはただただ微笑ましい存在でしかない。
「涼太くん、おっきくなったねえ」
親戚のおばさんのような口調で言うと、佐奈は少し驚いたように目を開いた。
「そうね、もう3歳よ。やんちゃで困るわ」
「そっかあ、もう3歳かあ」
結婚を焦る理由のひとつになった親友の出産。そこからもう3年経つと考えると、時の流れが早いのか遅いのか分からなくなった。
「それより、どーすんのよ」
「なにが?」
佐奈の問いの意味は分かったものの、答えたくなくてはぐらかす。それでも逃してくれないのが佐奈という女だ。
「分かってるくせに。諒くんのこと」
「どーしようもないよ」
無意識に視線が下がった。身に染み付いた演出。現実なのか虚構なのかすら遠い、感情とは乖離した行為。
「ほんとに?」
その問いに、微かに頭が痛んだ。どうしようもなくなんてないことは、わたしがいちばんよく分かっている。それこそ明確に道が見える。なんらかの手段で、彼はわたしを追いかけてくれるだろう。
だからこそ、逃げ道を用意しておいてよかったと思うのだ。
「ごめんね、佐奈。やっぱり、お願いすることになると思う」
どこか諦めと呆れの滲んだ表情で、親友はわたしの目を見つめた。そこに迷いがないか、真摯に見極めようとするかのように。
「後悔しない?」
「うん」
即答する。きっとあの時、わたしの出した答えは不正解だったのだろうとは思うけれど、それでも戻る選択肢はない。あの時逃げ道を用意したわたしもまた、間違いなく正直だったのだから。
***
わたしの地元の住宅街は、ある意味とても複雑な作りになっている。どこもかしこも同じ風景が続き、誰の家がどこにあるのか正確に覚えないと目的地には辿り着けない。
だからわたしは、些細なごまかしで逃げることができた。佐奈からの連絡で、逃げられたことを確信できた日に涙が出たとしても、この選択を後悔はしないと決めている。
——どうか、どうか。わたしよりも先に、彼が幸せになれますように。
未練がましい想いを抱えて、わたしは今日も現実と虚構の間でゆらゆらと揺れる。
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3月の月刊撚り糸で公開した作品の、サイドストーリー的立ち位置の物語です。