「家族」をテーマに対話し続ける
3回にわたり、【『沈没家族』を手掛かりに、自分なりの「かぞくのトリセツ」を考える対話会】を開催しました。
2名、5名、2名の方のご参加で、いろいろな話ができ、感謝しています。
さまざまな地域、さまざまな家族構成、さまざまな立場の方のお声が集まり、持ち寄ってそれぞれが持ち帰ることのできるとても貴重な場でした。
「家族」という言葉で思い浮かべるイメージがすでにひとそれぞれで、そこに求める関係性も本当に多様であるのだということを、23歳で最初の結婚をした私は認識していませんでした。
頭で考えればそりゃ、そうでしょ、と当時だって思ったでしょうが、そんな観かたをしたことがなかったのですね。なんとなくまだ自他の境界があいまいで、「え?なんでこうしないの?」「は?なんで言ってることが通じないの?」「いやこれ、望んでないし合意してないんですけど!」と、夫とのあいだのズレにいちいち戸惑い、怒り、傷ついていました。
こんな風に、個人的な実感を持ち寄って話す場があちこちであったら、「ずいぶん人によって違うものだなあ」という前提のもと、コミュニケーションをとれたかもしれません。
それよりなにより「自分はどうしたいのか?」を言語化することが必要だったのです。
しかし、「話す機会」でもないと、なかなか自分の内側にあるものを取り出して眺めることはしないものです。
「自分はどうしたいのか?」があると、「ではあなたはどうですか?」とパートナーとも話し合いやすい。先にパートナーからきいてしまうと「あ、そういうものなんだ」と鵜呑みにしてしまったり、「この人はそれを望んでいるんだ」と応えようとしてしまったりしやすいから。
育った家族、解散した家族、いまつくろうとしている家族。
いやそもそも「かぞく」ってななんだろう?
「やってみたらこうだった」「いまの実感」をさまざまな方からおききできたのもよかったです。自分がすべての試行錯誤を経験しなくとも、「こうしたらこうだったという人もいたな」とシェアされたことを参考にできる。
私なりの「かぞくのトリセツ」としては、
【他者の出入りをつくることで、風通しを担保する】というのがあるのだけど、今回3回の対話会をやってみてもうひとつトリセツが増えました。
それは、【「家族」をテーマに、いろんな人と対話し続ける】。
お互いの先入観、無意識の前提を解体しながら、自分自身の過去からの認識を検証・更新できる機会を、これからも持ち続けたいと思います。
とくに、当事者どうし(夫とか親子とか)でないところで、この機会があるのが重要だと思っています。まず個。そのうえで当事者間の対話。固定された主張のプレゼンではなく、やりとりの中で変わっていく可能性のある対話。
ご参加くださった方、興味を寄せて応援してくださった方、ありがとうございました。
『きみがつくる きみがみつける 社会のトリセツ』で、私の「パートナーシップのトリセツ」をいったん言語化したけれど、「かぞくのトリセツ」「親子のトリセツ」も言葉にしていきたい。