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私のアイデンティティ -出自編-

同世代(ミレニアル)やそれより若い世代の人たちの間では、白人じゃないからといって、外国人と決めつけて出身地を聞くのは失礼というのが常識になっている。
私の名前から推定するなら、中国出身と思うのが一般的だが、どうやら私は言動がどこの典型にも当てはまらないらしく、私の擬似UKアクセントからUK育ちと思う人も、アクセントすらも身元判定に使えず怪訝な顔をする人もいる。(ネイティブを騙せたときは嬉しかった😁)
本気で思っているのか遠回しに出身を聞いてるのか、ここ(白人率90%以上の居住国)で生まれたの?なんて聞いてくる人もいる。
多様な環境で育った人なら、そんなこと気にする素振りも見せない。

Where are you from? という問いには、その場限りの関係の場合はテキトーに答えるが、その後も会話を続ける関係の場合は、I was born in China but grew up in Japan. と事実だけ答えて、○○人という言葉は使わない。
単純明快な答えがほしかった人はやや不満そうであったりするが、消化するのに少し時間がかかりつつもそれなりに理解してくれる人もいる。
人格形成の流動性に対する解像度が高い人だと、ヨーロッパに住んで何年になるの?と聞いてくれたりもする。It feels quite nice when someone acknowledges more recent side of my identity development.

でもこれらは全て他人の解釈でしかない。
私は中国人だけど、チュウゴクジンじゃない。
I am Chinese but I’m not /tʃaɪˈniːz/ or チャイニーズ or however you pronounce it. Certainly not Japanese or ジャパニーズ, or 日本人.
I don’t fit into those tiny boxes that exist in someone’s mind.
What if I told you I’m 1/8 Korean?
How’s your neuroplasticity catching up? :)

小麦粉の皮でスパイスとかと挽肉を包んだ料理あるじゃないですか。
西は多分ポーランド(orイタリア?)から東は日本まで、その間の全域で様々な進化を遂げてきた料理。
英語ではdumplingsとひとくくりに呼称できるけれど(さすが料理音痴の言語!😂)、私の故郷の味は中国東北地方の饺子で、中身は90%以上肉、それ以外の具はにんにく生姜の他に韮がメインで入っているのが定番。茹でたものを黒酢につけて生にんにくをかじりながら食べる。余ったりすると翌日焼いて食べたりもする。
数年前に知ってどはまりしたのは、ジョージアあたりのხინკალიだったり、新疆〜ウズベキスタンあたりのمانتا/manti。ここらへんの料理大好き。

manti

ちなみに日本の餃子はなんで同じ漢字を使っているのか不思議なくらい別物という認識で、あんまり食べない。
文化というものは、国境という人工的な境界線を無視すれば、グラデーションであることは明らかで、影響し合って当然。
どっちが盗んだとか、起源はどこだとか、くだらない話だと思いませんか?
真似は真似であり、別物なのだから。

基本的に、アジアの大陸北方(北東も北西も)の料理が好きだけど、南だと桂林米粉(mí fěn≠こめこ)は特別。

桂林米粉 for 早餐

母方の直近の親戚が、水墨画から飛び出してきたような美しい場所、桂林に住んでいて、おばあちゃん子だった私は、この場所に特別な思い入れがある。
私が霧がかった景色に惹かれるのは、桂林の風景と姥姥がよく描いていた水墨画&水彩画の影響があると思う。
初めてピアノや絵筆を触った的都是在姥姥家里。我还记得那天第一次姥姥教我怎么用毛笔画出来国画那个风味。姥姥の描きはじめたばかりの絵に一筆かふた筆か入れさせてくれたのだが、まだ空白の多い紙に筆を入れる緊張感と、初めて学ぶ画法にわくわくする気持ちに溢れたあの瞬間を、まだ覚えている。まだ3歳か4歳だったはず。絵を描くのが大好きな子どもだった。
言語発達が早かったためか、結構小さい時の記憶が断片的に残っている。写真に残っている瞬間などは、自分の記憶なのか親などから聞いた話を記憶と思い込んでいるのかわからないものだけど、この記憶は、正真正銘、自分の記憶である。姥姥が一人で私の面倒を見ていたときの話で、私が最後に姥姥と会話を交わしたのは、5歳のときに中国を離れたときだったから。

        林宝满 (1938-2000)


私が生まれたのは北京で、姥姥の姉弟とその家族たち(音楽家とニートだらけの楽しい人たち😁)も北京に住んでいる/いた。舅姥爷の家に時々遊びに行っていたことは覚えている。なんだか建物が怖くて、いつも直前になって建物に入るのを嫌がる私を、舅姥爷は階段しかない中わざわざ1階まで降りてきて、あの手この手であやしてくれると、そのうち笑い出して言うことを聞くのだった。笑
ちょっぴりやんちゃで、注射でも絶対に泣かない強がりで、おねだりを一度もしたことがないくらい物欲がなくて、人前でも堂々と歌うような子どもだったと聞いている。通っていた幼儿园にはフィアンセが2人いたっけ😁
日本に引っ越してからも、忘れかけの中国語修行として夏休みに1人で送り込まれたり、両親が経済的に落ち着いてからは、1〜2年に一度は春休みに家族で帰ったりしていた。
饺子をみんなで包んだりして食卓を囲んだ後に、麻雀をしたりして賑やかな時間を過ごす。毎回ルールを忘れているので毎回説明してもらう。笑
中国にいるときは、人によっては無秩序と呼ぶのかもしれないが、無意味な形式ばかりの細かいルールがないという点で、とても気が楽。
特に北京は、そんなに過干渉でない感じも好き。
国外でも、昔ながらの中国超市に入ると肩の力が抜けて、北京口音が聞こえると童心に返るような安心感がある。

じゃあ中国に住みたいかっていうと、それはまた別のお話で、今帰ったところで私はそこでもoutsiderになることは目に見えている。
じゃあそのまま中国で育ちたかったかっていうと、どうなっていたか興味はあるけれど、過去を変えたいとは思わない。
複数の文化の狭間で育つという経験は、留学などのように選択してできるものではない上に、絶対的に私を豊かに、柔軟にしてくれるものであり、何よりも、今の自分が結構好きだからかもしれない。
ただ、日本に住んでいたときには話すことを憚られていたような、これらの中国文化とのつながりも、その後ヨーロッパに住んで得た小さな癖から価値観まで、全部ぜんぶ私の一部なのだ。
どこから取り入れた文化かなんて、私の習慣になってしまえばもう関係ない。そこには明確なボーダーなど存在しない。
北方では黒酢で食べるのが正宗な饺子だけど、時々黒酢に醤油を混ぜてみたりとか。
一文の中会有several languagesとか。
新しいものに触れ、学び続ける限り、私のアイデンティティは決して固体にはならい。

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