「社会で子どもを育てる」とは?
こんにちは、ヨウです。久しぶりの投稿となりました。
皆さんに質問です。
子どもを育てているのは、誰ですか?
今や、いろんな家族のカタチがあり、一概に「親でしょ。」と決めつけることができない世の中になってきましたね。
今日は、そんな社会の在り方についてのお話です。
家族依存社会の日本
大家族の時代から変化し、核家族化進んだ日本ですが、いまだに「家族依存社会」は続いています。
日本は、「家族」という単位で様々な仕組みが動いています。
もちろん、子どもが責任を負えない立場であるからこそですが、大人になっても家族という単位は大切にされます。例えば、生活保護の申請に「支援できる親族はいるか」と聞かれます。また、障害や老人の介護の申請を行うのも、家族がすることができます。家族は、家族のメンバーの手続きが出来るという、いわば”特権”があるのです。
家族が家族で支え合いながら、小さなチームとして運営して管理して、成長していくことが理想とされる社会であり、実際にそういう風に仕組みが作られています。それが日本です。
家族という「一本の綱」
少し考えてみてください。
「もし、家族に万が一のことがあったら…?」
「もし、親子関係が決裂したら…?」
「もし、親から虐待を受けたら…?」
家族依存社会は、こういうリスクを抱えても、安心して対応できるようには作られていません。上に書いた「もし」の話が現実になると、自分自身が苦境に立たされることは目に見えています。
そして、大半の人が、こういうリスクを抱えているはずです。見えていない、見せていないだけで、私達は少なからずそういう不安と戦いながら生きているのです。
家族依存社会においては、「子どもの問題は全て親の責任」です。「家族の問題は、家族でどうにかしなさい」です。家族に何かあったら、全て「お前らが悪い」と社会から厳しい口調で言われてしまいます。
しかし、家族もあくまで人間という生物の集団で、完璧な状態で存在していません。どこかに不具合が生じることは、どの家族にもあり得る話です。大企業が赤字で倒産するような時代に「家族が命綱」なんて無茶な話です。
たった一本の綱にぶら下がった状態で、私たちは育っているのです。
そんな家族が「頼みの綱」になってしまっているのが、今の日本の現状なのではないかと感じてしまいます。
「家族の綱が切れたら、他の綱をつかむ」ことは可能
しかし、よくよく制度を調べてみると、「助けてくれる場所」はたくさんあります。
例えば、DVを受けた家族が逃げる時、世帯分離して住民票をたどられないようにすることも出来ます。シェルターを利用して、安全を確保してもらうことも出来ます。一時的に子どもを施設に預けることだってできます。
細かいことは割愛しますが、家族の綱が切れた場合も、申請すればお金をもらえたり、住む場所をもらえたりするのです。
しかし、これはあくまで「失った時のセーフティーネット」であり、「申請すればもらえる」という受け身の支援なのです。要するに、「助けてと言わないと、綱を増やしてもらえない」のです。
「社会で育てる」とは
児童福祉と教育にほんの少しだけ詳しい私は、「社会で子どもを育てることは大切である」と考えています。
その意味は、「生まれた瞬間から、たくさんの綱を握っていること」です。
家族、病院、学校、福祉施設、行政、法律、親戚、友人…。
私達は多くの資源を持っています。生まれた瞬間からたくさんの綱を握ることができるのです。しかし、それは「自然とつかむ」ことができるものと、「自分からつかむ」必要があるものとに分かれます。
このたくさんの綱を、生まれた瞬間に、自然に、可能な限り持つことができる社会が、子どもを大切にしている良い社会だと思います。申請しなくても、助けを求めなくても、たくさんの命綱が繋がっている。これだけで安心ではありませんか?
私は、精神病を患った母をケアしながら、子どもだけで苦しい生活をしていました。家族を子どもで支え合って、ぶっ壊れそうになる直前に助けられたのです。それは、母が「自分から」支援を求めたからです。それまでは私たちの生活の命綱は、「子どもだけ」が持っていたのです。
私は運よく助かりました。しかし、こうやって助かることができない人も多いはずです。家族の負債を抱えて大人になり、家族に人生を制限されて、家族に足を引っ張られて生活している人はかなり多いのではないのでしょうか。
親が「綱を切ってしまう」という悲しい現実
しかし、ここまで上げた「綱」を、親自身の手で切ってしまうことがあります。
周りからとやかく言われることを嫌う親。
自分の教育論を振りかざすわがままな親。
疲労で、周りが見えなくなってしまった親。
親族や友人に「それ、おかしくない?」と言われることを恐れている親。
そういう、社会からの厳しい批判の目にビクビクしながら、「自分の失敗がバレないように」とジワジワと支援の手を離してしまう親が結構います。
私が児童相談所で働いている時、困っていること、悩んでいることを正直に話してもらい、申請さえしてもらえばなんとかなる状況がありました。しかし、説得しても「大丈夫です。」と差し伸べた手を払われたことが何度あったことか。たった1年間の間に、です。
「社会の厳しい目」は誰から放たれる?
親が支援の手を振り払おうとしてしまう原因は、やはり「社会からの厳しい目」だと思います。
しかし、この「厳しい目」を向けてくる人は誰なのでしょう?
私たちは、「誰かのせい」にしたい生き物です。
何で力になれるかを考えず、立場を守ることばかり考えてしまいます。
「自分にも落ち度があった」という真面目な人がいれば、その人に全ての責任を擦り付けて「自分は悪くない」と言い張ってしまいます。
そう、厳しく批判する人は「私は悪くない!」と言いたいだけの人なのです。
社会で育てるためには、こういう「私は悪くない!」という考えを取り除かなければいけません。
みんなで少しずつ責任を分け合いながら、子どもや家族"だけ"が困難を負わないようにする。それだけで、みんなが生きやすくなるはずです。
そんな優しい世界が広がっていくことを願っています。
終わりに ~人は人に救われる~
今回は、「社会で育てる」という話をしました。
私自身は、そういう意味では「社会に育てられた子ども」です。
恵まれていない自分の境遇を呪ったこともあります。しかし、今は楽しく生きています。
それは、私のように苦しい生活をしていたのは、私だけじゃないと知ったからです。そして、たくさんの人と出会い、たくさんのことを学んだからです。
私が、あのままずっと家で弟妹の世話をして、自分を犠牲にして家族を守り続けていたら、きっとこの楽しい毎日は永遠に来なかったことでしょう。
子どもは、たくさんの人格や価値観と出会う中で、自身を作り上げていきます。そうやって、複雑な世の中を生きていくための術を見つけて、自分で歩けるようになるのです。
子育てに悩んでいる方。
自分の不遇を悲しんでいる方。
一人で抱え込まず、大勢の人に助けてもらってください。その方が、子どもにとってずっと幸せな未来が待っているはずですから。
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