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自分自身の学びを得るには? 『君は君の人生の主役になれ』の鳥羽和久さんに聞く、学びとの出会い方。

「あのときに自分がした選択は、間違っていたかもしれない……」「いつも一貫性やコスパを求められているような気がして、自分自身がすり減っているように感じる……」

ふとした瞬間に、こんな後悔や焦りを感じることはありませんか? 人生に対する不安と向き合って乗り越え、新たなステップへと進む方法を見つけることは、一生つきまとう課題ともいえます。

今回お話を伺った鳥羽和久さんは、福岡で単位制高校や書店を併設した学習塾を経営されています。多くの子どもたちに学習指導するだけでなく、彼らの内面とその背景にも接し、その内容を書籍にすることで人々に勇気を与えてきました。その経験から、不安定な世の中に生きる私たち大人の学びについて、どのように話してくれるのでしょうか。
「どうして学ばないといけないの?」をテーマとする3月25日のイベントに合わせて、大人の学びとの出会いについてインタビューしました。

鳥羽和久

鳥羽和久さんプロフィール写真
1976年福岡生まれ。専門は日本文学・精神分析。寺子屋ネット福岡代表取締役、唐人町寺子屋塾長、及び単位制高校「航空高校唐人町」校長として、小中高生150名余の学習指導に携わる。教育や現代カルチャーに関する講演も多数。著書に『親子の手帖 増補版』(鳥影社)、『おやときどきこども』(ナナロク社)、『君は君の人生の主役になれ』(筑摩書房)、『「推し」の文化論 BTSから世界とつながる』(晶文社)など。西日本新聞、筑摩書房、大和書房などで連載。朝日新聞EduA相談員。


なめらかになってしまった大人たち

―――一人ひとりが感じる世の中の生き辛さについて考えることが多くて、先日鳥羽さんがツイートされていた内容がすごく気になりました。本当にそうだと思いました。中学生の時に持っていた鋭さが、大人になるプロセスでそぎ落とされて、なんのひっかかりもないつるっとした存在になってしまうのが悔しいとも思います。

これは中2の子たちが教室のホワイトボードに書いた落書きですが、ここには世間の価値観が乱雑ながらも凝縮された形で表れています。でも、大人がここに書いてあるような世間の本音のようなことを口に出したりやったりすると無作法な人となじられたり、バカにされたりするんですよね。そうやって大人は、いつの間にか安定した無難な位置に自分の身を置くことによって、内なる衝動的な感情や思考をないことにしてしまう。誰もが偏見や差別心といったネガティブなものを抱えているものですが、それすらなかったことにされてしまう。あの頃は幼かったからと言いながら、物わかりのいい大人になることで、十代の頃の鋭さがどんどん削ぎ落とされてしまって、つるっとした状態になっていくんです。

―――つるっとしてしまうのは、社会全体から見たときに効率がいいからでしょうか?

そういう面は大きいと思います。思春期の頃の鋭さをそのままにしておくようでは、摩擦が多くなって無駄も増えるから、効率重視の資本主義社会では現実的ではありません。それよりも、お互いに分かったような顔で取り繕いながらやっていった方がいいわけです。
でも、それはやっぱり一種のごまかしでしかなくて、実は大人になっても、生々しい差別心や、批判精神のようなものを抱えたまま生きているんですよ。社会的存在から個人の存在に戻ったときに、内的なくすぶりが表出することがあります。大人が抑圧されて鬱積したものが形を変えて表出することで、社会全体が悪い方向に傾く側面があると私は考えているので。

―――大人も犠牲になっているという事ですね。社会をうまく回しながらも個性を生かすのは、とても難しいことだと思うんですが、社会と個人のどちらを優先したらよいのでしょう。

全員が自分の欲望に忠実になる必要はありませんし、どちらかだけを選ぶ必要もありません。幸いにも、社会を優先して考える人、自身の想像力や欲望を大切にする人、といろいろな人がいるので、ある程度の役割分担ができると思っています。
だから今、多様性という言葉で語られますが、お互いに無理して分かり合うというよりは、お互いの領域を単に侵すようなことはしないようにしながらやっていけばいいと思うんです。それぞれの役割があることを認め合うこと、異なりをそのまま認め合うことが多様性ですよね。

“わたし”を更新してくれる旅

―――その考えは、基本的人権と似ていますね。個人レベルではそれができるのが一番だと思います。ただ、社会でとなると、何にでも意味やコスパが求められ、理解されないと承認もないことが多いように感じます。何かできることはあると思いますか?

社会で承認されることにこだわりすぎるから、おかしくなるのではないでしょうか。そんなときは旅に出ればいいのではないでしょうか。だいたい、人間にこだわりすぎなのではと思います。今の話は全部人間が中心に置かれていますが、所詮、人間は世界に存在するひとつの種(しゅ)でしかないので。社会のことを考えることは統括的で広い視野を持っていることと同義とされがちですが、社会というのは所詮人間の拵えものですよね。そればかりだとおかしくなるから山に向かい、海に向かう人がいるのだと思います。

―――鳥羽さんもいろいろなところへ行かれていますよね。旅で、鳥羽さんご自身が変わったと思うことはありますか? そもそも、どうやって行き先を選ぶのでしょうか?

その日のご飯を選ぶくらいの気持ちで行ったことがないところを選んでいます。文脈もなにもない選び方で、感覚的に思いつきで。だから、旅の内容が先取りできてしまうパッケージ旅行とかやったことがなくて。


私自身『旅をしても僕はそのまま』*1というタイトルのZINEを書いているくらいですから、基本的に旅をしても私は何も変わらないです。でも、旅先でその都度生まれ直すような感覚はありますね。それこそ、今度のイベントのテーマ「学びと出会い直す」につながると思いますが。自分の体の中が全部更新されて入れ替わっていく感じです。
日頃があまりにも忙しいから、旅の最中にどんどん快活になって、命知らずになるんですよ。旅が始まって5、6日目くらいになると、山の中を駆けずり回る野生児みたいになります。しまいには、煙の上がる火山の火口にも平気で下りていったり、今日は波が荒いから気をつけてと言われたのに浮き輪もつけずに高波を泳いで溺れそうになったりして(笑)。

*1 2023年5月から某web媒体で同名の連載がスタートする予定 

教育・学び・勉強の相違

―――「学び」というキーワードが出たので、そもそものお話になりますが、鳥羽さんは「勉強」というものをどのように定義されていますか? また「学び」との違いがあれば、教えてください。

私はこれまでの著作で「勉強」と「学び」については、厳密には使い分けていません。ただ、「勉強」と「教育」にはかなりの違いがあると考えて、明確に使い分けています。
教育は、基本的に目的があって、大人の「企て」の意識がかなり働いてると思っています。そこには「何々のため」という思惑が常につきまといます。それに対して、勉強や学びは本来的には、計画・意図されるものではなく自然発生的で、偶然性に身を委ねたところに生まれる必然だと考えています。また、勉強や学びは、日々変化して生きていきたいと考える人にとっては欠かせないものです。私は自著のなかで、勉強は親や周りの大人を別の言葉を持つことで、親たちの文脈から離れて自分独特の生き方を探るためのもの*2と書いているんですが、勉強によって別の言葉を手に入れると、その人の人生が撹乱され変成される、という意識があります。
そう考えると、変化するということは誰にとっても望ましいものではないことがわかってきます。だって、変化するということは、安定しないということと同義ですよね。安定したい人や安定を第一義に考えるべきコミュニティもあると思いますし、あらゆる人や環境に強制することはできません。私は勉強や学びが必要だとは話していますが、かといって必要としない人たちのことは絶対に否定したくないんです。

―――確かに、勉強して変化することで不安定になるということを著書や記事などで繰り返し書かれています。

私は、それが自由であるという言い方をしています。
今度の阿部知事との私の対談のテーマは「どうして学ばないといけないの?」でしたよね。歴史的に人類は飢えないための闘争をその人生の大半でしてきました。学ばないことは死に直結するのが普通だったので、学ぶことに必然性があったのだと思います。
でも、現代の人間は飢えから解放されて、そういう疑問が浮かんでしまうほど学びというものがわからなくなったという側面がある。かといって目的のない人生はつまらない。だから、学びをわざわざでっち上げなくちゃいけない、という時代だなという感じはしています

*2 『君は君の人生の主役になれ』「はじめに」、『おやときどきこども』「はじめに」

否定は新しいものを掴むチャンス

―――となると、現代に勉強の必要が自然発生することがあるのか疑問です……。

現代でも、本人が気づいているかどうかは別として、勉強を切実に必要としている人はやっぱりいますよ。
例えばの話(*プライバシー保護のため、実際とは設定を変えた話)ですが、ある時に、ひとりの高校生の男の子が私のところにやってきて「同じ部活の先輩のことを好きになったけれど、その先輩は男の人なんです」と話すことがありました。彼はそのことを、お母さんなら分かってくれるはず、と勇気を出して打ち明けたのですが、お母さんには一言「気持ち悪い」と言われてしまったと、すごくショックを受けていました。
彼がショックを受けたのは、彼はお母さんのことが大好きな「いい子」であり、彼自身、母親に望まれる通りに育ったという自己意識がかなり強かったからです。「お母さんはなぜ僕を否定するんだ? 僕はあなたが育てたように育ったのに」と彼は思ったそうです。
このように、親の期待に応えながら素直に育った子でさえ、人生の途中で自身の欲望が親の生き方や価値観と合致しなくなるということは当然あり得ます。だって一人ひとり個別の人生なんですから。そのような状況で、子どもが新たに自分なりの文脈を得て、親と違う生き方を見つけるのは、とても切実な問題なんですよ。

そんな時に、これまでと全く違う価値観や言語を自分の中に取り入れて別の道を見つけるために、勉強が必要になるんです。


―――親の価値観から自分が外れていることが分かったときは、痛みこそが勉強がはじまるタイミング、契機ということでしょうか。

そうですね。違和感や拒絶反応といった、否定的な感覚や感情が生まれたときですね。そういう意味では、否定的なものを無理に押し込めてはダメだと思っています。

今は、たくさんの育児書にそう書いてあるからか、親が子どもに否定語を使うことを避ける傾向にあって、子どもに優しく、理解のある親ばかりになっています。それが果たしていいのでしょうか。
むしろ、子どもが否定や拒絶と出会う訓練を、家庭である程度やるべきです。訓練のできている子たちが成長して、「この人は本当に苦手だ」「この仕事は僕は無理だ」「この環境では働けない」と感じたときこそ、新しいものを掴もうとするチャンスになると思うんですね。親が子どもを否定しない風潮って、実は、大人たちが空気を読んで必要なときさえ「NO」と言うことを避ける感性とつながっていて、自分への甘やかしでしかないのですよね。

欲望を明確にする関係性づくり

―――勉強や学びは、自然発生的とおっしゃっていましたが、学校や会社といった共同体の中で、それが生まれるように促す場所を作ることはできるのでしょうか。

そうですね……。もちろんそういう空間づくりとしての建築やデザインの仕事とかはあると思うのですが、今の質問が、個人単位でできることということであれば、それは、一人ひとりが人と関わる作法を学んでいくしかないと思います。
例えば、『おやときどきこども』(鳥羽和久著/ナナロク社、2020年)では、「リフレクティング」や「ユマニチュード」という手法を具体的に紹介*3しています。精神看護や福祉領域で使われることが多いですが、学校や塾のような教育の現場でも助けになるんですよ。

―――どんな方法でしょうか。

リフレクティングは、第三者の会話を聞くことで、自ずと内面での思考が掘り下げられる方法です。三者面談、例えば進路の決まっていない子どもと親御さんとの場で用います。
その時は、あえて子どもと直接的な対話はしません。代わりに、親御さんと私で「この子はこういうところがあるから、この学校がおもしろいかもしれない」という雑談を半ば無責任にやります。はじめ話半分に聞いていた子どもはいつの間にかその話に促されて、自分のなかにある欲望を発見します。私はこういうことがしたいんだなあとか、こういうのならできそうだからやってみようかなとか、そんな気になってくるんです。
面談では「あなたの目標は何?」「将来の夢は?」と尋ねがちですが、そんなふうに尋ねるから自分の薄弱な意志に自信をなくしてしまう子も多いのです。そうではなくて、子どもの欲望が生まれる場こそが求められているのだと思います。
こうして過去や周囲とのつながりのなかで自分の欲望の形をはっきりとさせていくこの方法は、精神看護の領域では「欲望形成支援」*4と言われます。

―――そうなんですね。

また、ユマニチュードは、認知症のケアで大きな成果を挙げている技法です。目を見て、声をかけ、体に触れ、立つ介助を行い、一人ひとりの尊厳をあたりまえに保つようにケアするのです。教育の場でも、子どもに対して、あなたはそのままですでに十全なのだと態度で示していきます。こうして子どもと「あなたのことを見ているよ」という関係性を築くことで、結果的に彼らの悩みが解消へと導かれていくこともあるでしょう。

―――親の視点からは、子どもが何かを選択したときに「この前こうしたいって言ったじゃないか」と追い詰めてしまう、とも著書にありましたね*5。どうしても選択させたい、という親の欲望もあると思うのですが。

親が選択を迫るから子どもは何とかふり絞って選んだのに、それが「あなたが選んだことだよね」とそのまま言質となってしまう。これって残酷ですよね。こんなふうに子どもに選択の責任を押し付けることを繰り返すと、子どもが選択や決断ができない子になっていくのはあたりまえです。
そんな恐ろしい悪循環を生み出すのではなく、自分が選択したことを全身で認めながらどう対応していくのかということのほうがずっと重要です。選択そのものは大した問題ではなく、生きる力にかかわるのは選択の後のことです。

―――人生一度きり、とよく言われますが、この言葉は、縛りにも後押しにもなりますね。一度きりだからこそ、選択は慎重にすべきなのか、無駄のないように生きるべきなのか……。

無駄のないという言い方は気になりますね。すごくコスパ的な考え方だと思います。むしろ人生全てがはじめから無駄と思ってた方がいいんじゃないでしょうか。

*3 『おやときどきこども』 リフレクティング:第3章、「子どもは欲望を見つける」、ユマニチュード:第3章、「関係性、それ自体が私なんだ」
*4 國分功一郎、斎藤環 対談「中動態×オープンダイアローグ=欲望形成支援」
*5 『おやときどきこども』第3章、「意思と責任」

変化することへの勇気を持つこと

―――選択するかしないか、の問題にもつながりますが、変化が必要になったとき、大人が踏み出す選択をするには、子どもに比べても別の何かが必要な気がします。

本当にそれはそうだと思います。私が普段接しているのは、小中高生ですが、子どもは意図しなくても、必要なときに変化するものです。子どもの可塑性はすごいですよ。すでに何らかの傷を負っていて、変化がままならない子もいますが。
一方、大人は「もう自分は変わらない」「人は簡単に変われない」と思い込んでいる人が圧倒的に多くて、難しいところがあるように思います。でもこれって、実は自身が変化することに耐えれないから、そう思い込むことで変化を押しとどめる方向に意識がはたらいているのではないかと思うのです。変わることは、自分の生き方が不安定になることなので、できれば避けたいのも分かります。大人になると「生活」という大問題がありますから特にそうでしょう。でも実は、人と話したり、本を読んだりする瞬間に、その人はすでに変化しているんです。
だから大人が一歩踏み出すには、まず、変わっていく自分を、勇気を持って認められるかどうかがとても大きいのではないでしょうか。ちなみに、本を読む時には、意識しなくても自分が変わりたいと思っている側面があります。大人は変わりたくないようで変わりたいというアンビバレンツな存在ですね。

――たしかに、本を読むときにはすでに、変わりたいという思いがぼんやりとある気がします。私自身は、自分の過去や能力を否定したいような気持ちのときにも読むことが多いですが、鳥羽さんはそんな気持ちになったときに、脱するための他の方法を持っていますか?

うーん。そこは、他人との関わりのなかで、たまたま起こったいい出会いなどで変わっていくしかないのかもしれないと思っています。自己肯定感という言葉を信じてる人たちって、肯定感がないのは自分のせいであると内面化しがちですよね。でも、自分を自分自身だけで肯定できる人なんていませんよ。たまたま出会った人を愛したり憎んだりしながら、そのときに現れる自分の悪の本性に絶望しながらなんとかやっていくしかないのではないですか。

―――人との出会いというのは、思い当たることがあります。勉強に出会うひとつのきっかけでもありますね。

必要になったタイミングで周りにおもしろい大人がいると、自身の欲望が活性化したり芽生えたりする原因になってラッキーですね。

―――おもしろい大人とは、どういうイメージでしょうか。ご自身の周りにはいましたか?

いわゆる、規範性から少し外れている人、少し場違いな人、空気を読まない人。予定調和から外れる人ですね。私自身は、大学院で師匠だった、哲学者の岩尾龍太郎先生がぱっと思い浮かびます。
岩尾先生は、ダニエル・デフォーが書いたロビンソン・クルーソー研究の第一人者です。2000年頃の九州では決して一般的なことではなかったと思うのですが、デリダやドゥルーズやラカン派の精神分析を読むことを盛んにすすめられました。「博多のロビンソン」と言われている人で、いつも黄色いパーカーを着て蟹股で歩くその姿は学内でひと際目立っていました。規範性を歯牙にもかけない先生の下で学べたのはとても大きかったです。

日常の視点から抜け出し自由を得る

―――いま、規範性から外れるというお話しがありましたが、著書*6で、パターナリズムにあふれる現実では、古典を読むことで自由に生きる手がかりを得られる、といったことを書かれてました。これはどういったことなんでしょうか。

それこそ、心理学者のユングは「集合的無意識」という言葉で人類の普遍的思考法を神話の中に見たわけですが、まあ、彼の理論を支持するかどうかは別として、人間の歴史のなかで同じことが繰り返されている、ということは実際にたくさんあります。
例えば「今の時代は悪くなった」「今の日本政府はとても悪い」というのも、それは確かに事実なんですが、それだけでは近視眼的な見方なんです。もうちょっと引いたところから見ると、多かれ少なかれ人間はいつの時代にも同じことをやっていることが分かる、ということが頻繁にあるんですね。つまり人間の思考にはどうもクセみたいなものがあるということが分かるわけです。
こういうふうにして大局的に見るという訓練は大切で、そうすることによってのみ根本的な解決につながる可能性もあるのではないでしょうか。「今の時代はよくない」「いったい日本政府は何をやってるんだ」などと言っているだけでは対処療法的な思考しか生まれません。

―――さまざまな歴史のパターンを見ることで、別の道を見出す助けになるというのは、本当にそのようにも思います。視野を広げるという意味では、これまで伺った、個人に戻る、旅をする、本を読む、変わることへの勇気を持つ、人に会う、と共通していますね。違和感や拒絶反応といった否定的なもののあとには、生活、日常の視点から抜け出し、振り返ることで、自身の欲望を見出すきっかけにもなる貴重なタイミングで、自身の変化を怖がらないように勉強に飛び込んでみようと思います。

*6 『君は君の人生の主役になれ』第2章、「あなたは「自由」の手ごたえを知っている」

鳥羽さんの著作の紹介

『「推し」の文化論 BTSから世界とつながる』(晶文社)
グローバルスターとなったBTSが放つメッセージを通して、複雑な世界を生き抜くことを諦めずに、自分独特の道を探るための方法を伝える指南書。鳥羽さんの最新刊。

『君は君の人生の主役になれ』(筑摩書房)
学校でのできごとや友達、親との関係性に悩む人達に、世界の見方や歩み方を教えてくれる。自分だけの道を歩む若者の背中を押す鳥羽さんからのメッセージが込められた一冊。

『おやときどきこども』(ナナロク社)
こちらは主に子どもの目線から両親や家族との関係性が綴られている。不安といらだち、信頼などの湧き上がるリアルな親子の姿に、鳥羽さんの哲学が寄り添う。

『親子の手帖』(鳥影社)
現代における子どもたちとその両親の関係性が赤裸々に綴られる。身近にいそうな複数の親子の姿を読むにつれ、親、子どもとの接し方を考えるきっかけに。2021年に増補版刊行。


テキスト&イラスト:松本麻美
編集者、イラストレーター。1988年神奈川県鎌倉市出身。おもに社会課題、地域活動、美術などの分野を手掛ける。一般社団法人Think the Earth 推進スタッフ、公益財団法人ジョイセフ 編集スタッフとしても活動。好物は本と映画とスイカ。



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