政治的でない作品って存在するの?
フリーゲーム、あるいは最近なら配信や動画で用いられるようなフリー素材の規約を見ると、そこそこの頻度で「政治的利用」が禁止されています。そりゃあ誰だって自分の作ったBGMが街宣車から流れてきたらビビりますし、自分の描いたモンスターが現総理大臣を食ってる画像のポスターを街中に貼られたら戦慄するので、そう言う規約を入れておかないと気が気ではないでしょう。政治絡みの主張をしている人どうしがバトってる様子もネット内外で散見されますし、そう言うのに巻き込まれたらたまったもんじゃありません。
しかしそもそも、政治と言う言葉は非常に曖昧なものです。weblio辞書に言わせれば、
以上を指して、政治と呼ぶようです。1の意味での政治はほとんどの人にとって(選挙の投票期間を除き)触れようのない世界の話です。しかし2についてはそうでもなりません。まず「ある社会」、つまるところ何らかの集団は、「学級」「酒飲みグループ」「SNSの知り合い」「家族」のような極めて小規模な集まりも包括した言葉と捉え得れます。そして、「対立や利害を調整して社会全体を統合するとともに、社会の意思決定を行い、これを実現する作用」と言うふんわりした言葉については、もう何やっても政治の範疇に入っちゃうんじゃないの?ってぐらいには好きに解釈できてしまいます。
そう言う感じで常々自分は「政治的利用」という言葉を見る度に「そうでない利用方法って実在するの?」ってもにょったり、作品を作る上で「政治ってなんぞや」みたいな疑問にはたまにぶつかるので、このあたりをテキストとしてまとめて他のものづくり系の趣味がある人に精査してもらいたいと思った次第です。
政治的でない作品は存在する、が……
前提として、政治的でない作品は存在しますし、いくつか知ってます。ただ話はそこで終わらないので、一旦騙されたと思って次の項目まで読んでください。と言うわけで作品の例です。
非現実の王国として知られる地における、ヴィヴィアン・ガールズの物語、子供奴隷の反乱に起因するグランデコ・アンジェリニアン戦争の嵐の物語
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%9E%E7%8F%BE%E5%AE%9F%E3%81%AE%E7%8E%8B%E5%9B%BD%E3%81%A7
ヘンリー・ダーガーと言う名前をご存知でしょうか。この方は自分の最も尊敬する人間です。彼は完全に自分自身の趣味の為だけに作品作りを行い、それを家から一切出さず誰にも見せることなく生涯を終え、アパートの大家がそれを発掘した事でようやく作品の存在が判明しました。つまり自分の作品を通じてどこかの誰かに「褒めてもらう」だとか「楽しんでもらう」だとかの他所に働きかけようとする思惑が全く無いまま作られた作品であるわけです。ここまで徹底された事で、前述の曖昧で広範な「政治」の定義域からようやく完全に抜け出せているのです。こうしてみると、ヘンリー・ダーガーさんや、その他誰にも名前を知られずに世を去っていった人々の作品と比べれば、世の傑作と呼ばれている作品の数々は名前を知られている時点で等しく紛い物だとすら思えてきます。そう言う感じの芸術に関する感傷を呼び出す為に、作品それ自体を見たことがない人からも畏敬の念を抱かれており、何ならその人生自体が芸術品のように扱われています。
昔会った精神障害の方が描いてた絵
昔、ある場所で精神障害の方と会う事がありました。その人は絵を描く趣味があったのですが、話によると「描いてる自分でも何が出来上がるかわからない」らしいのです。ただキャンバスに向かって絵の具を塗っていくと、そのうち作品ができあがる。見せて頂いた作品の写真は抽象画のようでしたが、ただランダムに絵の具を叩きつけたようなものではなく、見ていて一定の美や気持ちよさが感じられるものでした。非写実的なイメージが、その時々のランダムな何かしらに影響されて絵として出力される、と言う事なのでしょうか?古代の偉大な石像職人が「俺が石像の形を決めてるんじゃなくて石の中に完成体のイメージが内在してるんだよ」的な事を言っていた気がしますが、そう言うあれなのかも知れません。当時の会話の流れの関係であまり詳しく聞き出せたわけではありませんが、個人的にはすごく興味深い話でした。つまるところその方の作品は、よく言われるような「テーマ」だとか「表現したい事」だとかが存在していないわけです。これもまた「対立や利害」「社会の意思決定を行い、これを実現」と言った事柄からは完全に開放された作品の形と言えます。
自然物
当たり前ですが、滝や鍾乳洞は誰かが作ろうと思って作ったものではなく、たまたま出来ていたものです。それでも人はそれを「大自然の芸術」だとか形容してありがたがるわけです。あるいは人によるものでも、各々が勝手に建てまくった建物の集まりが町や都市を形成し出来上がる「街並み」や「夜景」も、個人の意図がパーツ単位でしか存在していない自然物的な芸術と言えるでしょう。
……と言う感じで、3つほど間違いなく政治的ではない作品を紹介しましたが、それらがだいぶ特殊だと皆さんは感じられたのではないでしょうか。今後の項目では、その辺りについて書いていきます。
政治と芸術に違いってあるの?
外山恒一と言う人をご存知でしょうか。昔、都知事選挙を売名のためのパフォーマンスに利用し時の人になったMAD素材 ファシスト 政治活動家です。この方の政治的信念の是非については主題から外れるので置いておきますが、この方が創設した政治結社のホームページの項目のひとつ「政治活動入門」に政治と芸術にあり方について、とても興味深い内容が書かれています。詳しくは実際に読んで見ればわかりますが(なんかこう尖った政治主張みたいなのは少なくともこのページにはそんなには書かれてないので、このページに限ってはあんまり警戒せずに読んでも大丈夫です)今回重要なのはこの辺の話です。
政治も芸術も表現活動であり、目的だけが違う
例えば愛と勇気を主題にしたRPGを作るとして、プレイした人間を愛と勇気に溢れた人に変えようとするのが政治、作ったり表現したりする事それ自体を楽しもうとしたら芸術、なのでしょうか。収益で生活するのを目指すなら?労働者かなにかでしょうか、その辺の定義は特に書いてありません。
上記の定義だと、作品が芸術的作品か政治的作品かは、作者の脳を覗かない限り区別するのが不可能、と言うことになります。あるいはそんな1か0かの区別なんてものは基本的には不可能であり、前項で例示したような例外を除けば、そもそも世の中の99%の作品は芸術的かつ政治的な作品なのではないでしょうか。勇者が魔王を倒すような勧善懲悪スタイルは古くからプロパガンダで使い古された形式ですし、「ママありがとう」と描かれたクレヨン画は家族内における意思疎通と言うある種の政治的意識が介在していると言えます。政治的な目的のビラや活動も、後世でデザインのビビッドさやパフォーマンスのエキセントリックさが芸術的観点で見直される事が多々あります。前書きであげたフリー素材はそもそも見栄えの為に使われる事が多いので、これを使って作られた作品は、何かしら影響を与えてやろうと言う広義の政治性が存在しない方が珍しいと解釈する事も可能でしょう。
芸術は政治と比較して「あえて」で選ばれるべきものである(政治をやったほうが手っ取り早い)
芸術で読み手に影響を与えたいなら、そんなまどろっこしい事をするよりは最初から政治的メッセージを発信した方が手っ取り早く、わざわざそんな遠回りするなら十分に自問自答して理由を作れ(、そして理由が存在しない非政治的芸術は無価値だ)、と言う話です。これについては書き手が政治側の人間なのでそっちに偏った側面がありますが、完全に見当外れの事を書いていると言うわけでもないでしょう。作品の善し悪しのバロメータの中には読み手にどれだけ印象を与えられるか、感動させられるかが(前述の例外的な作品を除けば)重要なポイントとして存在していますが、感動とは感情を動かすこと、つまりは自分以外の人間の脳を動かすと言う事であり、つまるところ政治的な作用であると言えるわけです。もちろん政治的メッセージがキツ過ぎてマイナス評価を食らう場合もありますが、そう言った作品は全体的なできが悪かったりメッセージの伝え方に問題があるケースも多々あり、もっと伝え方を工夫しておけばそのへんの減点を回避できそうに見える場合もよくあります。よく考えてみれば、読み手に何の影響も与えないけど素晴らしい作品を作ってやろうと言うのは逆に難しいです。そして与えたい影響次第では、わざわざ作品に頼る必要が絶対にあるとは言えません。
その作品、本当に政治的ではないのか
以上の内容を踏まえて考えれば、世の中の殆どの作品は少なからず政治的な意志が介在しているものであり、これを完全に脱色しようとするとテーマだとかの骨部分まで同時に取り除かれてしまうのがわかります。ただフリー素材の規約に限らず政治感がムンムンし過ぎている作品はどうしたってアレルギー反応を引き起こしてしまうのでマイルド化させる必要性はあるわけですが、果たしてそれは本当に脱政治化と言えるものなのでしょうか。往々にしてそれは、単に自分の好きな(あるいは嫌いな)政党の名前を架空の結社に置き換えているだけだったり、平和や平等みたいな国民の9割が反対しないような政治思想を選んでいるだけだったりします。このような上っ面だけの脱色は作品を過剰に劣化させる事こそ無いかも知れませんが、作品に正の影響を与える事もまた無いでしょう。自分の作品が政治的である事により自覚的になり、その上で作った方がずっと良いのかも知れません。
何にせよ利用規約は守らないとね
そんなこんなで、自分は「広義の意味での政治的でない作品」を作る事は名前を出して作品を発表する限りは不可能と考えています。なので、フリー素材を利用するために規約を確認する度に出てくる「政治的利用NG」にはちょくちょく考えさせられてしまうのです。と言ってもこれらは冒頭に挙げたような「特定の政治結社と紐付けられて面倒な目に会う」「自分が過激な主張をしていると誤解される」ような事故を回避する為の規定だと自分は解釈しているので、そう言うった形での迷惑を素材製作者様にかけないように配慮できていれば良いと判断し利用しています。もしこの記事を読んでいるフリー素材製作者の方がいらっしゃれば、その辺りどこかに詳しく書いて頂けると興味深いのでありがたいです。
余談ですが、フリー素材の規約で気になるものとしては他にも「(主に音声素材で)同性愛関係での利用はNG」と言うものがありました。これは別にLGBTへの嫌悪とかそう言うのではなく例のアレ文化とか腐女子文化とかに所属する中の厄介の少数派に巻き込まれたくないと言う意味合いだと思うのですが、割と誤解されやすい文面なのでもうちょっと対象を絞った文にした方が良い気はします。後はよく使われる「公序良俗に則って」と言う文面も、要するに「常識的な使い方をしてね」ぐらいの意味だとは思っていますが、作中の倫理観が中世レベルだったりする時に「この物語はフィクションです」の一文でどれだけ済まされるのかなあと気になったりはします。
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