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贈与と、分断と、貧困と。| 読書録というか雑記のような。

ここ1ヶ月ほど、世界とか、世の中とかについて考えさせられる記事や本にふれる機会が多かった。
たまたまのような気もするけれど、何かの巡り合わせで、今、このタイミングで、考えるべきことだったのかもしれないとも思う。

簡単な備忘録として。


近内悠太「世界は贈与でできている」


世界の論理の歯車がたった一つ狂うことで、この世界全体が悪夢へと簡単に変わってしまう
手に入れた知識や知見そのものが贈与であることに気づき、そしてその知見から世界を眺めたとき、いかに世界が贈与に満ちているかを悟った人を、教養ある人と呼ぶのです。
不当に受け取ってしまった。だから、このパスを次につなげなければならない。


この時代の、日本という国に生まれたことによって、どれほどのものを与えられているのか。
当たり前のように日々受けとっている、色んなものやサービスは誰かから贈られていることに意識を向けたことはあったか。

身のまわりのものすべてが誰かからの贈与なのだと考えはじめると、なぜか少し恐ろしくなった。とんでもない数の人たちが、知らず知らずのうちに自分という存在をつくっている。

「仕事のやりがい」と「生きる意味」の獲得は、目的ではなく結果です。 目的はあくまでもパスをつなぐ使命を果たすことです。

贈られたことに対して、「恩送り」としての仕事なのだと。誰かに向けてパスをつなぐ使命が課せられているのだと。


この割れ切った世界の片隅で

読んだとき、何も言葉にならなかった。
そしてそれは今も変わらず、改めて読み返してみても何も言葉にできない。
でも、こころの奥底に何かがぐさっと刺さっている。

この世の中の人々、あなたを含めた全員が格差問題の当事者です。

自分は、きっと思っているよりも恵まれた環境で生きてきたのだと思う。
そして、自分の思う"当たり前"というものは、ただの主観であって、ものすごく偏ったものなのかもしれない。

定期的に読み返したい。。



中村淳彦「東京貧困女子。」


江戸時代は庶民がほどよく貧乏だったから長く安定した時代だったと聞く。
ふと、そんなことが頭をよぎったが。
そんなレベルではない。

自分のいるところよりももっと遠いところの話だと思っていた貧困が、あまりにも近くにあることに衝撃を受けた。


恥ずかしながら、こころのどこかで、貧困は「自己責任」だと思っていた。
でも、今の自分があるのは、自分がすごく努力をしてきたからではなくて、必要な何もかもを与えてもらっていたからなのだと気づかされた。


おわりに。

昔から、そして今に至って尚、色んなものを十二分にに与えられてきて、
愚痴を言いながらも仕事ができているという事実。
今の仕事の環境も、相当恵まれている。


着るもの、食べるもの、住むところ何一つ不自由のない生活。ただ淡々と過ごしてしまうのだが、これが"当たり前"ではないのだと。
身のまわりの、自分の手の届く範囲のことで何か少しでもできたらいいなぁ...

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