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とこしえの声 〜カゴシマの夏〜

"あの夏"

太平洋戦争末期。
窮地に追い込まれた日本軍が行った「特攻」戦法。
それは飛行機に片道分の燃料と爆薬だけを積み、敵艦へ突っ込むという、世界でも類を見ない戦法でした。特攻兵として出撃した兵士は必ず戦死することになります。あまりに惨く衝撃的なこの史実は、後世に語り継がれるものとなりました。
忘れることのできない、忘れてはいけない史実です。


カゴシマの夏

知覧特攻平和会館


夏は祈りの季節。
毎年多くの鹿児島県民がここ「知覧特攻平和会館」を訪れます。あなたは知覧(ちらん)を知っていますか。親子連れや老夫婦。学校遠足の集団。世代を問わず大勢の人がこの小さな町を訪れるのです。
若くして「征きなさい」と命じられた青年たちに
この美しい土地から飛び立った青年たちに
静かに思いを馳せるために。



平和会館に一歩足を踏み入れると、壁一面の顔写真に視界を奪われます。
隊の戦闘服に身を包み誇らしげな笑顔を向ける青年たちの写真が、それはもうびっしりと、貼られています。

特攻兵士の写真


写真には彼らの名前、享年も添えられています。
20歳、25歳、32歳、19歳、17歳、......
ああ、17歳なんて。幼き日の私には随分と年上のように思えたものでしたが、今となってはすっかり見方も変わりました。高校生なんて子どもです。あまりに若い。歳を重ねるほどにこの恐ろしさが身に染みて感じられます。

写真、家族への手紙、遺書、零戦(ゼロ戦)、三角兵舎、戦闘服、ぼろぼろの日の丸。

戦争の遺品に囲まれた部屋の中はどこも逃げ場がなく、息苦しさで熱い涙が滲むのを感じます。
これが特攻。これが、史実。

零戦(海軍零式艦上戦闘機)


太平洋戦争中、ここ知覧の特攻基地から出撃した特攻隊員は439名。これは、全特攻戦死者1036名の約半数に相当します。
439名もの青年が遥か沖縄の海を目指して、死ぬために旅立っていったのです。

知覧は、死を待つための町でした。



私の夏

2024年8月16日。
私が「あの曲」に出会ったのはここです。
母校である鹿児島県立鶴丸高校の定期演奏会。

私は舞台袖で現役生の演奏に夢中になっていました。今年は一段と勢いがある吹奏楽部。数年ぶりにコンクールで金賞を受賞し、どの曲にも洗練された輝きがありました。次の曲はなんだろう。


_______ふたたび指揮棒が上がります
水を打ったような静寂。ピアノが透き通った音をぱらららんと浮かべました。ぞわり。一瞬にしてホールの温度が下がるのを感じました。まるで夏の木陰に吹く静かな風のよう。息をのむ静けさ。

次の瞬間からソプラノサックス、オーボエ、フルート….次々に現れる木管楽器のソロ。柔らかなそよ風が複雑に絡み合い私の全身をざわりざわりと撫でていくようです。透明な翠風に身を任せていると少し不穏な予感が顔をのぞかせて...。でもすぐにあたたかいフルートに包まれて。安心。希望。不安。感情が揺さぶられて落ち着かない。このままじゃいけない。戻れなくなるかもしれない。引き返そうとした瞬間、地面から大きな風が吹き上がり高く空中に打ち上げられました。

なんだこれは。なんだこの感情は。
つめたい涙が頬を濡らして走ってゆきました。
息をふるわせて、泣いていました。

________「とこしえの声」という曲です。




とこしえの声


「とこしえの声〜いまここに立つ母の姿」は樽屋雅徳作曲の吹奏楽曲です。
そこに描かれているのは「特攻」。

樽屋氏は、かつての特攻隊の史実を自身の目でたしかめたいという思いから、遥か知覧の地を訪れました。そして私と同じように平和会館の遺物に感情をかき乱され、この曲を書いたということです。

以下、樽谷氏の言葉より

 若い兵士たちが無邪気に微笑む写真や、愛する家族や恋人への遺書を目の当たりにした時、若い少年たちをこんなにも惨い戦争で失った言葉にすることもできない悲しみ、憤りを感じました。
 その中でも、母への感謝と、自分が先に命を絶つことを許してほしいという想いを綴った遺書が多く、ひときわ目にとまりました。死にたくないという心の叫びが隠れているように感じました。

foster music公式ページ


平和会館のショーケースに入ったたくさんの遺書たち。その多くは「今日出撃命令を受けました」という書き出しからはじまります。
達筆な文字で「母上のために」「お国のために」と書かれた手紙は、本当に本当に立派です。こんなに若いのに、まだまだ子どもなのに。言いようもない悲しさが込み上げます。
家族に送る最後の手紙にさえ軍の検閲が入りますから弱気なことは書けません。「死にたくない」なんてとても書けたものではないのです。しかし書かれていなくとも分かります。母への最後の手紙をしたため「どうかお元気で」と締めくくる、その辛さが。どんなに立派な大義名分を並べていても、愛する家族を遺して喜んで死にゆける人間なんていません。私と歳も変わらないような青年なんて尚更でしょう。もっと生きていたかったに決まっています。

樽屋氏は、戦争の時代に生まれ不本意ながらも覚悟を決め死にゆく青年たちの思い、そしてそんなわが子を思う母の思いを「とこしえの声」の中で描いています。
「母」を表現するのはピアノの音。ミとファの2音がモチーフとなってフレーズが発展し、曲の随所に登場します。凛としていて、時にあたたかい表情をみせるピアノの響き。いつだって私たちの心に寄り添い、ともに生きようとしてくれる母の姿がそこにはあります。死にゆく最期の瞬間に思い出すのもきっと母の温もりでしょうか。



とこしえに母とともにやすらかに

特攻勇士像「とこしえに」
母の像「やすらかに」


知覧特攻平和会館の敷地内に、これらの像が立っています。

特攻勇士像は、戦地である沖縄の方向を向いています。
母の像は、特攻勇士像を見守るかのように立てられています。

特攻隊の若い命は再び帰らず。
出陣の時間まで求めたであろう母の姿。
この晴れ姿をせめて母上に一目
最後の別れと、お礼を一言。
胸も張り裂けそうな、その心情は
母もまた同じであったろう
今ここに立つ母の姿
とこしえに母と共に安らかに
母の温かいみ胸で
御霊の安らかならんことを
世界・平和を祈念して。

昭和61年3月30日
熊本県芦北町 前田将


あの夏、この地を離れた青年たち。
彼らはどんな気持ちで開聞岳を越えて行ったのでしょうか。上から見る薩摩富士のながめを私は知りません。せめてどうか美しいながめであってほしい。そう願うばかりです。


拝啓あなた。
どうかどうか、やすらかに。
私は決して忘れません。

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