おろしや国酔夢譚
大黒屋光太夫と同じネタで、今度は井上靖による小説。
吉村昭氏よりは短く、どちらかといえば、ロシア本国に辿りついて
帰国の交渉をしてから日本に帰るまでの経緯が、吉村昭のものより詳しく書かれています。逆に言えば吉村昭の小説の方が、船が難破し、島に命からがら辿りつき、ロシア本土に足を踏み入れるまでの苛酷な毎日を詳細に記しています。
吉村昭のほうが、過酷にして数奇な光太夫に起きた「出来事」に焦点をあてている印象ですが、井上靖は、帰国前から帰国後に至るまでの光太夫の心情の変化もかなり丁寧に書いています。むろん、この心情の変化は井上靖の解釈も入っているものと思いますが、まだ鎖国も解かれていなく、諸外国に対する警戒心が解けていない日本の中で、暮らしていくのは容易ではなかったと思われます。
長い眼でみれば、日本の光太夫や磯吉に対する対処はあまりに非人情であるばかりでなく、日本と世界とのコミュニケーションの取り方を考える絶好の機会を逃しており、今の世からみれば理解に苦しみます。
しかし逆に言えば、いかにも日本的ともいえるのかもしれません。あくまでも日本の中の出来事、価値観が大事であり、世界各国の事情は二の次。変化を嫌い、慣習を貴ぶ。いやだから文化が廃れずに後世まで残ったという面もあるのでしょうが、外交や科学の発展という意味合いではその保守性はマイナスにしかなりません。
ここまで数奇で、かつ、貴重な経験が、十分に尊ばれもせず、むしろ幽閉
されるような処遇のされ方をする、とはなんともはや、ですが当時の江戸幕府がどう思おうと、光太夫についてはもうどうでもいいことになっていたのかもしれないなとも思います。自分の中で貴重な経験として残り、ほかの人には起こりえない経験をベースに江戸を眺めた際には、きっとさまざまな発見があったことでしょう。ロシアでの体験をどう話したか、よりもむしろロシアを見た後江戸を見た際、何にきがついたのか、を知りたい気もしますが、むろんそういった記録はありません。そこまで求めるのは欲張りで、ここまで苛酷にあっても生きる目的を見失うことなく生き抜いた人たちがいると後世の人間が学べるだけで十分なのかもしれません。