【限界】有名な「錯覚映像」で心理学界をザワつかせた著者らが語る「人間はいかに間違えるか」:『錯覚の科学』
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致命的なミスをしないために知っておくべき「人間が避けられない失敗のクセ」
心理学の世界に衝撃を与えた実験を、Youtubeで体感する
本書の著者2人は、後に教科書にも載ることになったある実験を行い、心理学の世界に衝撃を与えた。本書ではそんな著者らが、心理学的な知見を紹介し、人間がどのようなエラーを起こしやすいか、どんなミスをしてしまい得るかについて、様々な実例を挙げながら紹介していく。
まずは、著者らが行い、心理学界をザワつかせた実験をYoutubeの動画を使って体感してみよう。
以下のYoutubeのリンクをクリックすると、ある動画が流れる。英語で指示が表記されるので、まずその指示を以下に日本語で書いておこう。
動画には6人の女性が登場する。3人が白いTシャツを、3人が黒いTシャツを着ている。彼女たちが、2つのバスケットボールのパス回しをするので、「白いTシャツを着た3人のパス回しの回数」を正確にカウントしてほしい。
やることはそれだけだ。では、以下の映像を見てみよう。
結果についてはここでは触れないが、著者らの実験でも、その後別のグループが行った追試でも、被験者の半分は「衝撃を受ける」そうだ。かくいう私も、「衝撃を受けた側」である。
被験者の半分は「衝撃を受けない」そうなので、もしかしたらあなたも「衝撃を受けなかった側」かもしれないが、だからといって他の「エラー」や「ミス」も回避しやすい、というわけでは決してない。本書で指摘されていることはきちんと理解しておこう。
全人類が読むべき「人生の教科書」
大げさかもしれないが、本書は、世界中の人々に配られるべきではないかと思う。本書そのものでなくとも、その要約を図示したようなものでもいい。
本書は、日常の様々な場面で、「人間はこんなエラーを犯しがち」とあらかじめ警告してくれる。先程の動画で「衝撃を受けた側」の人であれば、この意味がより強く理解できるだろう。ちゃんと見ていると思っても見えていないし、ちゃんと覚えていると思っても覚えていない。人間には残念ながら、そのような欠陥がもともと備わっているのだ。
本書を読めば読むほど、自分の知覚や記憶への信頼感を失っていくだろう。そして、「知覚や記憶は信頼が置けないものだ」という事実は、社会の共通認識であるべきだとも感じた。だからこそ、社会に生きるすべての人が読むべき本だと思うのだ。
あとで紹介するが、「自分が明確に記憶していること」が、有無を言わさず誤りだったと判明する事例がある。つまり人間は、「自分の都合の良いように記憶を書き換えてしまう生き物」というわけだ。そして、このことが共通認識として存在しなければ、「私の記憶ではそうなっている」という誰かの主張をどうやっても突き崩せないことになってしまう。
私たちはもちろん、知覚や記憶を通じて他人や社会と関わっている。そして自分が感じたこと、覚えていることを、疑う機会はなかなかない。しかし、自分が「正しい」と信じていることが、実はまったくの間違いでしかない可能性もあるということなのだ。
日常の中でこのことを実感する機会があるとすれば、既に何か大きなトラブルが引き起こされてしまっている可能性が高いだろう。そうならないためにも、あらかじめ私たちは、「人間が避けられない失敗のクセ」を知り、ゼロにはできないにせよ、事前に注意を向けておくという姿勢が重要ではないかと思うのだ。
それでは以下では、各章の章題を見出しにしながら、どのような事例が紹介されるのかに触れていこうと思う。
えひめ丸はなぜ沈没したのか? 注意の錯覚
この章で扱われるのは、「視界に入っているのに『見えていない』」という事例である。章題にある「えひめ丸」はアメリカ海軍の原子力潜水艦に衝突されて沈没したのだが、潜水艦の艦長は明らかに視界の先に存在したはずの「えひめ丸」を「見えなかった」と証言したのだ。
別の事例として、偽証罪で起訴されたアメリカの警官が取り上げられる。その警官は、逃走中の被疑者を追跡中だったのが、同じ頃、別の警官がある行き違いからその被疑者と誤認され、警官仲間にボコボコにされていた。起訴された警官はその現場を目撃したはずなのに、「自分は見なかった」と証言し、偽証罪に問われた。
このように、「視界に入っていること」と「見えていること」は決してイコールではないことが、様々な事例を通じて示されるのだ。
他にも、我々の生活にもっと身近な話題も取り上げられる。
私は車を運転しないのでほとんど経験はないが、車を日常的に運転する人であれば、「バイクが突然飛び出してくる」という状況に遭遇することがあるだろう。これはもちろん、ドライバーの確認不足というケースもある。しかし、「視界には入っているが『見えていない』」場合もある。
なぜそうなってしまうのか。それは「バイクが自動車の形に似ていないから」だという。ドライバーにとって「車」は馴染みの存在だが、「バイク」はそうではない。人間というのは、「そこにあると予期できるもの」は見落とさないが、「そこにあると予期しにくいもの」は、視界に入っていても見落としてしまうということのようだ。
これは、歩行者と自転車に関しても同じことが言える。都市部ほど自転車での移動が頻繁なので、事故も多くなると予想するかもしれない。しかし実はアメリカでは、歩行者と自転車の事故は、都市部で最も少ないという結果が出ている。これについては、歩行者が自転車の存在を見慣れているために、視界に入った自転車をすぐに「認識する」ことができるからだろうと考えられているようだ。
しかし不思議に思わないだろうか? こんな「注意の錯覚」を抱えながら、人類はどうしてここまで生き残ってこられたのか、と。
実は、この「注意の錯覚」が現れるようになったのは最近のことだという。つまり、現代社会の生活があまりに複雑であり、「人間の注意の限界」まで達してしまっている、ということなのだ。
人類が進化してきた過程では、人類の生活環境は今ほど複雑ではなかった。船に乗っていたら潜水艦が下から突き上げてくることも、車に乗っていたら横からバイクが突然飛び出してきたりすることなど起こらなかったのである。だから「注意力」をそこまで酷使せずに済んだ。
しかし現代社会は、人類が進化の過程で手に入れたものを遥かに超える注意力が要求される環境であるが故に、「エラー」がて現れてしまっているのだと指摘されている。
捏造されたヒラリーの戦場体験 記憶の錯覚
この章では、「人間の記憶はいかに曖昧か」の実例が紹介される。ヒラリー・クリントンが繰り返し語っていた「戦場体験」は真っ赤な嘘だったと判明したのが、本人にとっては「正しい記憶」だった可能性があるというわけだ。
この章で非常に印象的な話は、バスケットボールのコーチに関するエピソードである。
バスケットボール選手の1人がある時、「コーチに首を締められた」と訴え、その時の状況を事細かに語った。しかし、その場にいた他の選手は、コーチが首を締めたなどという事実はなかった、と証言する。
決定的な証拠がなく、両者の言い分は平行線のままだったが、その数年後、その時の状況を映したビデオが偶然発見された。そして、首を締められたという選手の証言は誤りだと判明したのだ。しかしその後もその選手は、「自分の記憶では、コーチに首を締められたことに間違いない」と主張し続けたという。
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