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【日記】愛のない話
続 路線バスの旅
今日は路線バスに乗って街からちょっと北へ離れた道の駅へ行きました。
私はこれまでの人生でクリスマスイブに労働をしたことが無く、今年も不思議な力で労働がなかったので(無職なので当然)、福山市がやっている路線バス無料の制度(今日まで)を利用して、ちょっと遠くへ出かけてきたわけです。
これは一週間くらい前からざっくりと計画していたことだったんですけど、1つ予定外だったのが、母も同行したことです。
母とは、一昨日この路線バス無料を利用して、鞆の浦へ行ってきた所なのですが、「24日も仕事が休みなので、またタダでバスに乗ってどこかへ行きたい」というリクエストがあったので、一緒に北の山の方へ向かう路線に乗り、ちょうどいい場所にある道の駅で降りて、昼ごはんを食べたり、買い物をしたりしたわけです。
片道1時間強、普段は行かない山道をバスに揺られて走ったり、美味しいけど値段のわりに小さいホットドッグやこんにゃくを食べたり、野菜の直売所で白菜が安いのを買ったりして楽しんできました。
確かに遠出は楽しかったし、母とも良い時間を過ごせたのですが、心のどこかで「でも1人で行きたかったな」と思う自分もいるのです。
母に限らず誰かと一緒に行動すると、相手の興味や体力に気を回さないといけないといけないのが煩わしいこともあるのです。いや、より正確にいうと、私は何があるとか無いとかじゃなく知らない道を通るのが楽しいし、臨機応変という名の行き当たりばったりを愛し、旅程はきつければきついほど喜びを感じる性質なのです。そしてこれらの喜びを共有できる人間は多くありません。だから誰かと行動を共にすると、そういった面の欲が満たされず物足りなさを感じ、どこかで1人行動をしたくなります。
そんなことをボヤきながら、その一方で、「完全に1人で生きていると、自らの行動のほぼ全てを自分で決めることができ、予想外のことが起こらないから面白くない」と他の人間を求める気持ちが湧き起こる事もあります。ここで1人は寂しいとか、誰かといた方が楽しいって理由が真っ先に出てこないのが終わってるなって思います。
義務感でネコをなでる
私は猫が好きです。犬派か猫派かで言うと猫派で、外で猫を見かけると、手を振ったり鳴き真で話しかけたりするほどです。
オーストラリアに行ってた時、イギリス人女性の家でシェアハウスをしていた時期がありました。その人は猫を2匹飼っていて、名前はトンクスと確かレディでした。
トンクスの方は名前をハリポタのキャラから取っていたし、活発な子でテレビの画面を叩いたりして飼い主に名前を呼ばれていたのでよく覚えています。もう1匹は大人しかったため、名前を呼ばれているのを僕が聞いたのもほんの数回で、だから少しあやふやなんですね。
ある時、彼女が休暇で1か月ほどイギリスに帰る事がありました。その間、他の人間が彼女の部屋に泊まり猫たちの面倒を見ていました。
しかし、やはり飼い主がいなくて寂しいのか、私が椅子に座っている時に活発な方の猫(トンクス)が足に擦り寄ってくるようになりました。
最初は嬉しかったです。猫は好きだし、懐いてくれてるのも嬉しいし、撫でると触り心地が良いですから。ネットでどこをどう撫でると猫が喜んでくれるのかを調べたりもしました。
ただ1週間もすると、飽きのようなものを感じるようになりました。もちろんちゃんと撫でてあげます。猫は撫でてほしくて、飼い主がいない間の人恋しさを解消したくて擦り寄って来てるのだから、それにはきちんと応えてあげたいのです。
ただ、そこにこちら側の喜びが無いのです。そちらが(猫が)必要なら撫でてあげるよ。以上です。私は義務感で猫を撫でていたのです。
この時私は、自分は生き物を愛でることが出来ない人間なのだと心底思い知らされました。
そしてこれが人に対してもイコールで無いことを願うばかりです。
ちなみに、飼い主が帰って来たら、猫は全然近寄らなくなりました。たまに気まぐれで擦り寄ってくれる時もあり、そういう時はまた少し嬉しく感じたものです。
というわけで、今日は愛についての懺悔を行いました。クリスマスなので。しっかり反省して、来年からは真人間になれると良いですね。
ではまた明日。