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破滅願望と漫画作品との関係について


破滅願望という言葉を筆者が知ったのは、藤子・A・不二雄の漫画『笑ゥせぇるすまん』からである。
 
『笑ゥせぇるすまん』では、「破滅症患者」というタイトルで紹介され、主人公はごく普通のサラリーマンが主人公である。
 
会社の仕事も申し分なくこなし、結婚もして何一つ問題の無い主人公であったが、大事な書類をわざと落とそうとしたり、危険な店に行こうとするなど、危なっかしい行動をしている。
 
それを見た喪黒福造は、あなたは「破滅症患者」であると言ったのである。


娯楽は常に破滅的

 
「破滅症」もしくは「破滅願望」とは、今の現状がどれほど満たされていても、それを壊したくなるような衝動が沸き起こってしまう心理である。
 
破滅症を治すには、疑似的な破滅行為をするしかないと、喪黒福造は言うのだが、この疑似的な破滅行為こそ、娯楽作品の原動力になっているのではないのかと筆者は思っている。
 
考えてみると、娯楽というのは、破滅的な物が多い。なぜなら、漫画、アニメ、ゲーム等は、迫力のある破壊描写があるほうが一般的に浸透しやすいからである。特に、アクションものやホラーはその傾向がある。
 
漫画やゲームだけでなはない。ギャンブルや酒、煙草も、限度を超えれば破滅に向かっていくし、遊園地の乗り物でも、人気のあるものは、ジェットコースターなど、大抵スリルのあるものばかりである。
 
つまり、大衆は娯楽で疑似的な破滅行為を行うことで、自分自身を保っているのだ。

70年代に発表された『アトムの最後』


前述したように、漫画作品も破滅願望を満たす娯楽作品の一つである。
 
漫画の神とよばれた手塚治虫も、破滅的な作品の多いことで有名である。特に『バンパイヤ』や『MW(ムウ)』、『アラバスター』のように、悪人を主人公にして、社会を混沌に陥れるような作品を数多く描いていた。
 
また『火の鳥』の未来編などは、人類が終末に向かっていく様に、手塚の心に潜むニヒリスティックな一面が垣間見える。
 
その中でも、70年代に発表された、番外編のアトムとも言うべき『アトムの最後』は、驚くべき内容となっている。
 
舞台となっているのは2055年。アトムの時代から50年後の時代となっている。
 
その世界では、ロボットが支配する世界となっており、人間はロボットの愛玩物として育てられ、そのうえ成長したら殺し合いをさせて、ショートして楽しむようになっていた。
 
主人公である鉄皮丈夫も、ロボットの両親に育てられた人間の一人であり、競技場に行かされて、殺し合いをさせられるところを、恋人のジュリ―と共に脱走し、博物館に逃げ込んだ。そこにはアトムが眠っているのだ。
 
アトムは50年後の悲惨な未来を聞いて、ショックを受けるものの、丈夫がロボットと恋人になってると知って、まだ希望があると思った。ジュリーはロボットだったのだ。
 
アトムは、二人を守るために戦いに向かったが、丈夫はジュリ―がロボットであることを知らなかったために、騙されたと思って、彼女を殺してしまう。
 
結果的に、アトムは50年後のロボット達に破壊されてしまい、丈夫は、ロボット達に処刑されて、無残な最期を遂げてしまう。
 
本作を収録している「鉄腕アトム別巻」のあとがきによると、当時の暗くてニヒルな空気感に影響されたとあり、手塚は気に入っていないようである。
 
もっとも、手塚は70年代に、前述した『アラバスター』や『MW(ムウ)』を描いており、暗くて頽廃的な作品を多く執筆していた。
 
『バンパイヤ』に至っては、60年代に描かれており、手塚がハッピーエンドを好んでいないと言うのは、氏の作品を拝見すればわかる。
 
つまり、70年代の空気感だけではなく、手塚は深層心理に破滅的な暗い衝動を抱えていたのだ。
 

水木しげると貸本漫画の世界


手塚と同じ戦争を経験した漫画家といえば、水木しげるである。手塚が漫画の神であるなら、水木は漫画の妖怪とも言うべき存在だ。
 
水木しげるは、売れるまで時間のかかった漫画家である。なぜなら、現在の明るくとぼけた妖怪漫画を描いている水木のイメージとは裏腹に、初期の水木しげるの作風は、暗く頽廃的な作風であったからだ。
 
水木が一般誌でヒットを飛ばすまで、彼の作品が掲載されていたのは、貸本漫画と呼ばれるレンタル専門の出版社であった。
 
貸本漫画は、50年代の頃に主流であり、一般紙に掲載されていた手塚が描いていたようなコミカルなタッチではなく、ホラーやサスペンスなど、シリアスなタッチの作風が多く、内容も暗く頽廃的なものが多かった。
 
後に、劇画と呼ばれるジャンルを誕生させるのも、貸本漫画業界からなのであるが、水木もまた、暗く頽廃的な作風を描いていた。
 
後の『ゲゲゲの鬼太郎』の原型となる、『墓場の鬼太郎』もそうだった。この作品の鬼太郎は、今の鬼太郎とは違い、醜いデザインで、力も強くなく、さらに言えば、ヒーローとはほど遠い性格で、むしろ人を陥れるようなキャラクターであった。
 
元々鬼太郎は、幽霊族という霊力を持った第二の人類とも言うべき種族であり、人間に滅ぼされかけ、生き残った夫婦から生まれたという設定であった。
 
しかも、両親は不治の病におかされていたため、鬼太郎が生まれる前に亡くなってしまい、鬼太郎は死んだ母親の墓から生まれてきたのだ。父親は目玉だけで生き延び、それが後の目玉の親父となる。
 
とても忌まわしい誕生の仕方であるが、元々『墓場の鬼太郎』は怪奇漫画であったため、鬼太郎は今の『ゲゲゲの鬼太郎』で見られるようなヒーローではなく、気味の悪い異形の少年として登場していたのだ。
 
もともと、水木しげるは主人公が悲惨な末路を遂げていくような、破滅的な作品を描いていた。また、死後の世界に関心をよせていた。
 
なぜなら、手塚もそうであったように、水木も戦争を経験していた人であった。水木が戦時中の実体験を元に描いた漫画、『総員玉砕せよ!!』は、彼がなぜ、死について考えるようになったかがわかる。
 
『総員玉砕せよ!!』に出てくる登場人物は、いかにもな軍人らしい人も入れば、常に食い物のことばかり考えているとぼけた人もおり、又、口で立派なことを言いながら、一人だけ安全な所に逃げようとしたり、嫌な上官と思っていたら、意外と親切な一面もあるような人達が出てくる。
 
つまり、人間そのものを描いているのであり、そして、彼らは皆、等しく死んでしまうのである。
 
水木自身も片腕をなくしてしまうような経験をしており、彼の創作の原点は、戦時中に体験した多くの地獄ではないだろうか。
 
その最中で、水木はラバウルの原住民たちと交流を重ね、再び生きて日本に戻った。そして、その後も極貧生活が待ち受けていた。
 
水木の頽廃的な作風、そして、ニヒリズムはそんなところから来ているのであろう。
 

劇画全盛期、70年代はなぜ暗かったのか?


前述したように、『アトムの最後』が出版された70年代は、暗い作風の漫画が目立っていた。
 
例を挙げれば、『デビルマン』『銭ゲバ』『漂流教室』など、数に限りが無い。実際、当時流行った漫画は、劇画と呼ばれるもので、手塚治虫が描いていたような、丸っこいコミカルな作風は、流行らず、手塚は当時、時代遅れとまで言われ、虫プロが倒産するまで、追い詰められていた。
 
その時に『ブラック・ジャック』がヒットしたために、手塚は復活を遂げた。
 
70年代に、『ブラック・ジャック』や『デビルマン』等の、頽廃的な作品が出てきた要因の一つに、劇画と呼ばれるジャンルが出回ったことにある。
 
劇画は、大阪の貸本漫画専門の出版社である「日の丸文庫」で描いていた漫画家たちによって、立ち上げられていたジャンルであった。名付け親は辰巳ヨシヒロである。
 
メンバーの中には、後に『ゴルゴ13』で有名になる、さいとう・たかをの姿もあった。
 
劇画は、コミカルな作風が多かった50年代の漫画界に反発するように、シリアスな作風を基盤とする作風を立ち上げたものだった。
 
やがて、劇画は60年代半ばにブームとなり、70年代に入ると上記の『ブラックジャック』に『あしたのジョー』など、劇画の影響を受けたような作品が、子供向けの雑誌にも現れるようになる。
 
また、双葉社の『アクション』が刊行されたのも、60年代後半からで、『アクション』はモンキーパンチの『ルパン三世』やバロン吉本の『柔侠伝』、小島剛夕の『子連れ狼』など、劇画タッチの作品を次々と発表していった。
 
『アクション』は、明らかに大人向けの漫画雑誌を意識していた。これは、60年代後半から、漫画雑誌に大人の読者が増え始めたのが要因である。
 
彼らの中には、エネルギーをもてあまし、世間や社会に対するやり場のない怒りや不満のはけ口を探していた。
 
特に、『あしたのジョー』は学生運動をしていた若者に読まれていた。さらには、よど号ハイジャック事件を起こした犯人たちは、自らを「明日のジョー」と名乗っていた。
 
当時の若者たちが、いかに漫画を読み込んでいたのかがわかる。

燃え尽きることを青春とした主人公『あしたのジョー』


前述した『あしたのジョー』は、ちばてつやが漫画を担当し、高森朝雄(梶原一騎)が原作を担当した。
 
孤児で、不良だったジョーが、拳闘屋くずれの男、丹下段平と出会って、ボクサーとなる物語である。
 
中盤で展開したライバルである力石徹との戦いと彼の死は、多くの人に衝撃を与えた。そのうえ、なんと、力石の葬式まで行うという出来事まで起きていた。
 
『あしたのジョー』は、お世辞にも明るい作品とは言えない。てばてつやが描いた、ドヤ街の子どもたちのおかげで、いくばくか朗らかな場面が出てくるが、主人公のジョーは、毎度、傷だらけになりながらボクシングに打ち込んでいく殺伐とした場面ばかりである。
 
なぜ彼は、それほどまで、ボクシングに打ち込むのか、その理由は、作中でジョー自身がこう答えていた。
 
「ほんのしゅんかんにせよ、まぶしいほど、まっかに燃え上がるんだ、そして、あとにはまっ白な灰だけがのこる・・・・」
 
ジョーは勝つために、栄光を得るためにボクシングをやっているのではない。もちろん、まったくないということはないだろうが、元々、ジョーの夢は、ドヤ街を発展させることであった。
 
だが、力石をはじめとして、多くのライバルと戦うことで、それまでにはない奇妙な充実した何かを感じていた。それが、己の破滅になるのだとしても。
 
ジョーは、終盤に向かううちに、パンチドランカーに悩まされていくようになる。打たせて戦うスタイルであったために、体がとうとうガタがきていたのだ。
 
それでも、世界チャンピオンと戦うまでにボクシングを続けた。そして、最後のジョーの姿は、世界チャンピオンであるホセ・メンドーサに僅差で敗れながらも、どこか安らかな表情を浮かべていた。
 
ファンの間でもジョーは死んだのか、生きているのか、意見が別れているが、ジョーの破滅的でありながらどこか奇妙な充実感を覚える青春に、不思議な感動を覚えた人が多かったはずである。

永井豪と漫画批判


劇画の登場、そして貸本漫画で活躍していた怪奇漫画達が週刊誌で活躍するようになると、必然的に、漫画は過剰な表現になっていく。
 
『デビルマン』の作者で有名な永井豪は、『ハレンチ学園』で、過激な性描写をしたことで、とてつもない批判を受けていた。
 
そのため、心の奥底に人間に対する不信感が募っていった。そんな中で生まれたのが、『デビルマン』の原型とも言うべき作品である『魔王ダンテ』であった。
 
しかし、『魔王ダンテ』は連載されていた雑誌が廃刊になってしまい、打ち切りとなってしまう。
 
その後、永井豪は、アニメと並行するという形で、『デビルマン』を描くことになる。
 
アニメ版とは違い、漫画版の『デビルマン』は、ヨハネ黙示録を彷彿させるような破滅的な作風で話題を呼び、終盤になると人類は全滅してしまう。
 
文庫版の『魔王ダンテ』のあとがきで、『ハレンチ学園』が社会問題に発展したことで、永井豪は、自身の中に人間に対する不信感が生まれてしまったため、人類が滅びてしまう結末を描いたとのことであった。
 
漫画は大分以前から、悪書とされており、焚書の対象となっていた。あの手塚治虫の作品も、焚書対象となっていたことがあったため、手塚は漫画家の地位を向上するべく奔走していたことで有名である。
 
加えて、『デビルマン』が誕生した70年代は、終末論が流行っていたため、どことなく厭世的な空気感になっていった。
 
『デビルマン』には、表現の規制に対する怒り、そして70年代特有の終末論な空気感、そして若者たちの暗い衝動が込められているように思える。

 『AKIRA』『ドラゴンボール』 世界を破壊する個人達


 70年代が終わりを向かえ、80年代に入ると、若者たちは「恋愛」に関心が向くようになっていく。一方、オタクと呼ばれる者達も現れ始め、彼らはSFを嗜好していった。
 
そして、暗い破滅願望を持った者は、不良漫画に没頭していった。
 
そして、この三つを合わせた漫画作品が誕生する。それが大友克洋の『AKIRA』である。
 
大友克洋は、背景の緻密な描写で有名な漫画家であるが、元々は青年向きの漫画で、日常ものを描いていた。
 
やがて、彼は『童夢』という作品で、超能力を扱ったスリラーを描いた後、SF漫画『AKIRA』を描いた。
 
『AKIRA』は、緻密に描写された未来都市やメカ等で有名となったが、主人公が暴走族であるという点が斬新であった。
 
さらに、恋愛ものや、超能力の要素を足して、本作が生まれたわけであるが、最大の特徴は、超能力者による都市破壊描写である。
 
『童夢』の時から、大友克洋は、緻密な破壊描写が話題になっていたが、『AKIRA』では、一人の超能力者が都市を破壊してしまうまでにパワーアップしている。
 
つまり、漫画の世界では、一個人が世界を破壊してしまう力を手にいれてしまうまでになってしまったのだ。
 
やがて、90年代になると、鳥山明の『ドラゴンボール』では、主人公はどんどん強くなってゆき、神を凌駕した力を持つようになってしまう。
 
さらに、テレビアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』では、世界の破壊と創造を、主人公一人に託されるようになっていくまでになった。
 
いわゆる、セカイ系と呼ばれるジャンルの誕生でもあるわけであるが、そもそも、こうした、世界の破壊と創造の繰り返しを描いた作品の原型は、手塚治虫の『火の鳥』にも見られる。
 
つまり、人の持つ破滅願望とは、本能レベルで昔から持っていたものであり、そしてそれは、自分と周囲をリセットし、そして新しくやり直そうとするための本能がそうさせるのではないか。
 
この破滅願望に答えるべく、漫画はどんどん過激な破壊描写のある作品が生まれ続けていく。
 
そして、これらの作品が青少年に影響を与えることを恐れ、規制や批判の対象となっていく。規制をかける者は、異口同音に「青少年の育成のため」と言っているが、果たしてそれは健全なことなのか?
 
それは、ただ、人の持つ暗い衝動から目をそむけるだけのことであり、破滅願望に対して、ただ無防備にするだけのことではないかと思う。

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