【短編小説】『最後の無邪気な時間』 The end of the innocence/ Don Henley
はじめに
この短編小説は『The end of the innocence 』というDon HenleyとBruce Hornsby共作の楽曲にインスパイアされて書いたものです。
発表当時のミュージックビデオのシーン(現在は見られず)と歌詞を一部参考にしましたが、まったく違う物語を創作しました。
ふいに香る金木犀に思わず立ち止まり、振り返る。どこから漂ってくるのだろう。見上げた空が高い。
開港150周年を記念したパレードが港からの坂道を登ってくる。
揃いの麦藁のカンカン帽に金ボタンのブレザー、レジメンタルタイで着飾ったマーチングバンドに紙吹雪が桜のように舞う。
「靴紐、ほどけた」
と言うと少女はベンチに腰掛け、解けたターコイズブルーのリボンを足首に器用に巻きつけた。
「素敵な靴だね」
と僕が言うと、彼女は
「サキさんのね、靴底が真っ赤なハイヒールが素敵って言ったら、踵を低いヒールに替えて仕立て直してくれたの」
「とても似合ってる」
「アオはまだ成長期だから、ハイヒールは大学生になってからって。歩きやすいようにトウシューズみたいな靴紐をね、付けてくれたの」
黒のサテン地のスクエアトゥにターコイズブルーのリボン、歩くたびにチラリと見える朱色がとてもシックだ。
「アオ、サナダ君」
と言ってサキさんが芝生を突っ切って来る。ミルクティー色のニットにチャコールグレーのストールを巻いて、手には甘い香りのベビーカステラ。
僕らは開けた芝生を眺め、ベビーカステラを頬張る。
こんなふうに心地よい風に吹かれて、草の上に寝転び、どこまでも青い空を見上げた遥か昔の時間に心が飛んだ。無邪気でいられた最後の日々。
並んで寝転んだ少女にシロツメグサで編んだ冠を載せた。
長く編んだ三つ編みを解いてうつむく彼女の髪が、僕をカーテンのように覆って気の弱い僕を口づけに導いてくれた。
「そして二人はいつまでも幸せに暮らしましたとさ」
というお伽話の最後を無邪気に信じ、「そして」の先に何が起こるかなんて考えもしなかった。
マーチングバンドの後ろを僕たちはついて行く。アオを真ん中に右にサキさん、左に僕。はたから見たら親子に見えるのだろうか?
血のつながりなど無い、全くの他人なのに。
アオの両親はお互いに別のパートナーを作って離婚した。アオはどちらにも引き取られず叔母であるサキさんが引き取った。きっとアオは
「そして幸せに」
なんて言うお伽話を聞かされたこともなければ、そんな世界があると思ったこともない。
サキさんは自身のパートナーと離婚協議中で弁護士にクドクドと執拗な質問を受けている。
僕は父親から引き継いだ時計店の資金繰りに追われて、帳簿の間違いをいつも税理士から叱られている。
本当ならアオは「最後の無邪気な時間」が来るまで夢見る子供の時間を過ごせたはずだ。
アオは知らなくて良いことをどれだけ知ってしまったんだろう?
アオの気持ちはどれだけ無視されたんだろう?
無邪気でいられるのは知らないからで、無垢でいられるのは心を踏み荒らされていないからだ。
(だけど)
夢見る頃を過ぎて、疑いもせず裏切られ、穴にはまり、迂闊と笑われ。
それでもか、それだからか、「他者のただの親切心」が静かに沁みる。
僕は優しさという純粋を信じたい。
もう「無邪気」ではないけれど、アオのイノセンスはこれからだ。
「反抗期」という人生最初のハイライトもすぐそこだ。
僕のような赤の他人の親切心、舐めんな。
「サナダ君、もしかして親みたいな心境になっちゃってる?」
サキさんにいきった気持ちを見透かされて僕は動揺する。
「私はアオの保護者って仮称が付いたけど、君なんかエキストラ、私たちはアオの人生で舞台袖の端役でしかない」
「でも、ほら、サキさんの離婚が成立して僕と、こう、どうにかこうにか?」
「食い下がるねぇ」
数歩先を歩くアオが振り向いて
「サナダ君はサナダ君、サキさんはサキさんだよ」
と言ってフフッと笑った。
創作あとがき
おぼろげな記憶ですが、元になったDon Henleyのミュージックビデオでは白黒の画面で街を行く音楽隊のパレードに紙吹雪が桜の花びらのように舞うシーンがあり、このワンシーンからの創作でした。
歌詞は第二次世界大戦後の1946年から1964年あたりのベビーブーマー世代が1981年からのレーガン政権下の高度経済成長期の影を振り返る内容が隠喩されているようです。
「いつまでも幸せに暮らしましたとさ」なんて言うお伽話に毒されて」
という歌詞は経済成長の永続を疑わず、「努力は必ず報われる」と諭され、負けることが許されない価値観を持たざるを得なかった世代の溜息のように映ります。
私の創作した物語では「離婚した両親のどちらにも引き取られない女の子」というハードな家庭環境を背負ったアオは、果たして「選ばれなかった」のか「選ばなかった」のか。特に明確にはしていません。
「私という存在は、「私」と「私の環境」である」
とオルテガ・イ・ガセットは言っています。
「私の環境」とは自分自身で選べない家庭環境や自身の肉体環境、育つ地域の環境や社会全体の政治環境など。特に経済的に独立する前の子供の意思を持った選択が大人の都合で十分に行使されない、とても問題です。
子供の時間は一年が3倍速、4倍速で進む時間の密度が濃い時間だと思います。
その時期にどんな人と関わるのか、どんな事象に出会うのか、ひとつのごく軽いノックが思わぬ方向へ人生の方向性を変えて行くのが子供時代だと思います。
叔母のサキと全くの他人のサナダの手がアオの背中をあたたかく、そっと後押しすることを祈って書きました。