人に優しくするのはなんのため?
人に優しくするのは何のためか、真剣に考えてみた。
あんまり自分が他人に優しい自覚はない。ある人はとっても素敵な人だと思う。優しさはある程度意識して行われる行為だと思うので。
そもそも優しいってなんだろう
思うに優しいは無関心ととても紙一重な気がしていて、でも対局な気もしている。
優しい、はきっと手を差し伸べてくれることであったり、その人のためを思って行動したり配慮したりすることで、ただ、真綿で包むのではなく時には厳しくあることもそれは1つの優しさだと思う
無関心は、ある意味無言の同意に過ぎず、否定されないことで傷つかないという点においては、優しいと紙一重なんじゃないか。
遠く見えるけれど、優しさも無関心も、1つではなくて正解も決まっていないからこそ、そう感じる
例えば友人に直すべきだと思われる欠点があったとして、それを指摘するのは優しさだと思うし、指摘した時友人がある程度傷つくことを想定して言わないでおくのも優しさだと思う。
例えそこに、どうせその友人は変わらないだろうという諦めや、無関心があったとして、言わないでおいたとしても、結果その友人が傷つかないのであればその無関心はとても優しさと近いものになるような気がする
ただ、同じくらい無関心には人を傷つけるものがあると思っている。
誰かを幸福にするものを優しさと呼ぶと、それはとても難しい概念になるな、と思ってしまうな
好きの反対は無関心とも言うのに近いかもしれない。
何か考えるべき問題に対して無関心でいることは、罪だと思う
きっと向き合わずいることで、余計に傷ついている人がいるから。
向き合ったことで生まれる新たな問題はとても大きく困難なものも多いはずだけれど、向き合ったことで一歩、見ないふりをしてきたものが日の目を見ることになる、それはとても大きな一歩だと思う
優しさも、無関心も、どちらが受け手にとっていいものであるかは受け手自身の判断が大きいのではないだろうか
きっと無関心のまま、これ以上今以上辛い思いをしたくないと思う人もいるだろうし、優しさで指摘して欲しい人もいるはずだ
結局何が正解でみんなが頷ける優しさなのか、とっっっても難しい
私が思う優しいとは、自分の考えうる中で、より一般的に、個人的にその人の為になるであろう行為であって、きっと身勝手で押し付けがましく偽善で、でもそれが誰かの役に立ち誰かを救うこともあるような、そんなことだ。
誰かのためと言いながらきっとその優しさの多くは自己満足で、主観で、多分みんなそんな感じだと思う
初めに立ち返って、何のために人に優しくするかと言われれば、私は自分のため。
人に優しくして喜ばれると嬉しいし、自分もやった感があるし、周りに優しくしておくと周りも自分に優しくしてくれたりする。
たまに、本当に何も考えずただその人のためにやってあげることもある
私の場合、基本的に全ての行動は、やらんよりはやった方がいい、なので気づいてしまったらやることが多い。なんかこう言うと凄くいい人みたいな気がするけどそんなことはない。
なんというか、気づいたのにやらないのはとても後味が悪いので迷った末やる。落し物見つけて周りに声掛けたりとか。困ってそうな人に声掛けたりとか。気になるので。あとは何もせずに立ち去ったところを知り合いとかに見られたら、最低な人だと思われるんじゃないかみたいな気持ちもある。
でもこれも偽善だよな〜とは思う
まぁそれで助かる人がいる(ことが多いと思っている)のでいいんですけど
そんなもんだよね、優しさって