たびのきおく
3月と4月は自由に結構にやらせてもらう。と思ったらスリランカ、バリ、そして国外とはいかずとも日本をウロウロするという事態。こんにちは。
幼女月間なるものを遂行している私。
振り切れているほど、出てくるわ出てくるわ。
「もうたくさんだ!!!」という前のめりで愉快で聖なる逆ギレをしているのだ。
幼女は「好き嫌い」しか言わないので理解しやすい。まずピンクの頭にして、スリランカにいき、そしてそのまま日本について6時間でバリを決めて、家に帰らず神戸に泊まり、芦屋の家を解約手続きをしてから1日家で寝て、今福井にいる。会いたい人に会いに行く。アメージングな出来事と協奏している。今、たくさんこの地球に前のめりで恋をしている。
音や温感の肌を感じてる。
生身の肉体に生きている。
スリランカでカーリーに会った時。
私はとうとうひとりぼっちになってしまったと思った。これは薄々知っていたものだった。この宇宙にたった一人だということを思い出す深夜の深淵さ。
けれど「どうせなら、どうせだよな」とV字を描くことに時間はかからなかった。物分かりや頭がいいのではなく、悩むということにほとほと疲れ切ったカンスト人生という背景がある。悩んで、正確な答えを探し出し、哲学をし、何か感情を宿命のようにのしかけるのはもう十分やった。悪態もついた。人も批判した、大人にも不快を示した。だけど変わらなかった。「お前だよ」の精神の形成にはそういうカンスト値がある。笑いの精神は、深刻さという閉じ込められた濁流から生成した私の大切な青い宝石なのだ。
命を謳歌する
ただ喜ぶ 触れたいものに触れる
命を祝福する 生きていることが嬉しいと思う
命の祝福とは、命ではないところでの不変から見ていることが証明される。私は、表では波打ち際を大いにはしゃぎ、深海では揺るぎない。ホールネスで静観している感覚がなければ、こんなに命を祝福する心地は現れない。父も、母も、家族も。そして国を超えて出会う人も。大切な人たちも。友人も。全然知らない誰かも。愛おしい。生きていることは、素晴らしいよ。
誰かと雑魚寝をしたり、文化も何も違う異星人のような人たちや世界に「こんにちは」と声をかける。このことは、すごく面白く感じられる。
感性や心が生きていれば、この世ではたくさんのものに恋ができる。命を吹き返すみんなを見届けて私は笑いたいんだ。
敵や配役、特別枠、もう、すべて。
関係なく愛したいんだ。
なぜなら、生涯を大切にしたいから。
開き直りは私をオープンにする。