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 快楽は、苦しみの子ども

毎度分かったよと思うかもしれないが、私にとって書店は本当にエロでしかない。
私がよく通う書店は賑やかな書店ではなく、空間がある程度広く、読書空間がメインの隣接された静かなカフェがある。商業とポップの匂いがしない、少しアカデミックな書店。

またもや、素敵なエロ本を見つけてしまった。
この本を読みながら感じた事を書く。

快の錬金術


快の起点は不快。それを解放するとき快楽がある。
そうフロイトが言っている。

ある種のエネルギー(リビドー)が滞ると圧力が生まれ苦しい。それを解放するとき気持ちいい。
快楽があるから苦しみがあるのではなく、苦しみがあるから快楽がある、と言っているのだ。


快楽を求める人は、弛緩を求めているのと同じだ。
だとしたら、その求める気持ちが強ければ強いほど緊張と苦しみの証拠と言えないだろうか。気持ちよさや快楽へ向かうことを自己実現というカテゴリに一括りにされていることもある。果たしてその自覚が、我々にはあるのだろうか。快楽へ向かうこと..つまりは脳内物質のある一定の刺激を求めることは一見ポジティブにも見える事もある。しかし、その前提は苦しみだ。

快楽は苦しみや苦痛から生まれる。
ゆえに、快楽は苦しみの子どもだ。


ふと。仏陀が残した
「この世は苦である(一切皆苦)」
この言葉が浮かんだ。


「一切皆苦。だからこそ快もあるけど、全ては苦しみが起点としてあり、その上で成り立つんだよー」
という翻訳が私の中で為されている。

【一切皆苦】という言葉に触れたのはおそらく高校生の頃。当時の私は「全てを悲観的に観るネガティブな教え」だと思った。
大人になってからは「マインドフルネスな止観は分かるが、冷たい印象を持つよな〜」だと思った。

どちらにせよ、あまり迎え入れたいものではなかったが、なるほど、ただロジカルに苦しみが起点で仕組み原理の話だったんだとこの本から教えてもらった。
過去、この教えに反抗したくなった私が今日納得することになった。

快楽を認め、望むこと、掴もうとすることはそれ自体、不快(苦しみ)を認めることでもある。
面白いなあと思う。

しかしその不快さは、人間になにかを成す力を与えてきた。不快なものは避けて、快楽は求める人間の行動原理があるからだ。

イメージや不快の底力を見たことはあるか。

瞑想やノンデュアリティでは“イメージはイメージでしかない”とか不快は頭の中にしかない”というようなメッセージが多い。私自身もそこからメッセージを放つ事が多いのだが、「イメージ」も「不快」も行動原理として見た時、とても大切な鍵なのだなと思った。

頭がいい人が未来の計画を立てて、サクセスストーリーを歩むものだと思っていた。だけど、なにかを成す人は頭がいいというよりも本能での原理に基づいている。“不快”なイメージが強烈に離れなくなり、それを回避するために行動が起こって行く。そして“不快”から免れたと思えたり、それを超え達成したら快楽という報酬でびっしょり濡れる。

これ、意図的にやるとイメージ療法じゃん。
なんだ、私も出来る、と思った。

この地球で行き伸びてきた人類の進化の箱にある想像力と、本能的原理を重ね合わせる。
それが錬金を生み出していくのだ。

話は変わるが、みんながスラムダンクを見にいく中
ゴリヌンティウス(ドウェイン•ジョンソン様)を拝みに行ってきた。ダークヒーローものだ。私はこんな記事を書いているぐらいダークヒーローにそそられる。

正義のヒーローは白か悪か二分直ぐするがダークヒーローはそんなことしない。混濁の中、ただ自分の信念のみで動く。やらかしもなんとも素直で憎めない。アウトローさと確固たる信念と正直さ。概念のなさがバブみを引き立ててもう..とにかくドウェイン様無双でした。圧倒的強さにギュンギュンきて前半はハァハァ言いながら映画を楽しみました。混じり気ない悪と不純な正義なら混じり気ない悪に一票したくなる。純度というセクシーさには敵わぬものよ。


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