捨て犬男とノラ猫女:Mar.4
時刻は午後六時を過ぎたばかり。空はまだ明るさを保っている。賢太は、慣れた靴のありがたみを感じながら歩いた。耳の奥にフロアの喧騒が残っている。髪を揺らす風。宙に拡散されるタバコの匂い。
――何か、急に腹減った……
休憩中も三原と一緒で、しっかり食事を摂った気分になれなかった。急速にやってきた空腹感に襲われ、コンビニに吸い寄せられる。簡単に口に放り込めるスナック的なものを探していたはずが、大盛りと書かれたカップラーメンを手に取っていた。
湯を注いだカップラーメンを持ち、狭いイートインスペースへ。女子高生か、女子大生か、それくらいの年頃の女が二人、アイスクリームを食べながら談笑している。ミニスカートから飛び出した素肌が寒々しい。
――めっちゃマンガのキャラクターっぽい。リアルだとちょっとな……
頭に巡らせてしまった思いに、賢太は微かな罪悪感を抱いた。床に視線を。視界の端に女の靴。赤いパンプス。
突然、赤いスリップオンを思い出し、心臓がバクンと大きな拍を打つ。賢太は、女達のどの部分も視界に入らないよう、カップラーメンの蓋に視点を合わせた。
――急に、なんなんだよ
働いている間は、あの女のことなんて考えなかった。思い出して、やはりあれは現実ではなかったのではないか、と疑う。
――どんな顔だったっけ?
昨夜のことなのに、女の顔をはっきりと覚えていない。それは賢太にとって意外な事実だった。たいていの場合、相手の外見は一発でインプットされる。だから、あのおかしな女の顔をはっきり思い出せないことに、かすかな戸惑いを覚えた。しかし、これは救いなのかもしれない。女の顔をはっきりとインプットしていたら、何度も思い出して、似ているカタチを街中に求めてしまったかもしれない。
――何で覚えてないんだ? 薄暗かったからか?
確かに覚えているのは、赤いスリップオン、やけに細い手首、また今度、という言葉。
――ホントに、またくるのか?
きて欲しいとは思っていない。しかし自分の部屋の中に他人の大切な物が隠されていると知ってしまったら、気にならないはずがない。
天袋の上、つまり、屋根裏に何かが隠されている。屋根裏の様子を見るための進入口が天袋にあるのだろう。隠したのなら取り出せる。当然の話ではあるが、何故そんなところに。
しかも他人が暮らしていた部屋だ。あの女とケンケンという人物は、どんな関係だったのだろう。大切な物を預けておける相手なのだから、それなりに親しかったに違いない。
あれこれと思いを巡らせていると、スマートフォンが小さな音を奏でた。カップラーメンの完成だ。
――とりあえず一週間待つ。それで何もなければ終わり
賢太が麺をすすり始めると、女達は席を立った。賢太は丸めていた背中を伸ばし、焦がし味噌風味のつゆを口に含んだ。
飲み込んで、長い息が漏れる。体の中心に熱。袖をまくり上げ、麺をすすり上げる。はたから見れば、ガツガツ喰っている、といった様子に見えるだろう。しかし賢太は気にかけず、カップラーメンを完食した。
コンビニを出て、再び帰路につく。すれ違う人々は、まだ冬の色合いの者、季節に合った素材を身に着けている者、あと一枚羽織ったほうが良いのではないか、と感じさせる者。統一性がないと感じ、色々あって当たり前、と改める。
賢太はいつの頃からか、他人のデザインが気になり始めた。体型、服装、そういったものを観察してしまう。人は見た目では判断できないというのが、一般的な見解だ。賢太は自分が、人を見た目で判断する人間だという自覚がある。そんな自分を嫌悪することもある。しかし、どうしてもデザインが気になる。幼い頃から絵を描くのが好きだったからか、自然と観察をするようになったのかもしれない。
――っていうより、あんな家にいたら、そうなるよな
得意の【誰かのせい】が頭をよぎり、失笑。それでも、自分のルーツとなった【誰か】を思考に登場させる。
一級建築士の父と、インテリアデザイナーの母。賢太は、幼い頃から洗練された家に住み、センスが良いと褒められる服を着て育った。髪形は、両親がともに信頼をおいている美容師に任せていた。
自分で服や持ち物を選んだ記憶は、ほとんどない。与えられたものを、当然のように身に着けていた。友人達がしていたように、学校の制服を着崩したこともない。友人達が少し不良っぽく振る舞う様をカッコイイと思っても、真似ることができなかった。他人に不快感を与えないようにしなさい、というのが、母の教えだったから。
コンビニで堂々とカップラーメンをすすることすら、賢太にとっては冒険と言っていい。着ているパーカーとジーンズも、相当迷って購入した。誰に、どう見られるのか。誰かのデザイン同様、自分のデザインも気になる。
イートインコーナーで見かけた女達は、お世辞にもスタイルが良いとは言えなかった。しかし、思い切りよく自分の好きな格好をしている、と感じた。ポップで一目をひくデザイン。スタイル云々ではなく、似合っていた。
――なんで俺はやりたいと思ってることできないんだ?
やりたいことをする。それができる思考が羨ましい。自分の中から何を捨てれば、そうなれるのだろう。いや、捨てるのではなく、手に入れなければならないのかもしれない。
――そういうの、どっかで買えたらいいのにな
賢太は目の前に迫った古びたアパートを見つめながら、小さく咳をした。自分の口から、ジャンクな味噌の匂いが飛び出した。思わず口から出た匂いを手で払う。今度は微かなタバコの匂いが鼻についた。ロッカールームは喫煙者、非喫煙者に分けはない。
「は、服? マジか。置いてただけじゃん」
自分の服に染みついてしまったタバコの匂いに文句をぶつけ、賢太は足を速めた。
玄関に入ったらすぐに服を脱いで風呂場へ直行。帰宅後の行動予定は、絶対になる自信があった。