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雨、雪溶かす春の調べ

黒の羽織を濡らすのは小糠雨。鼓膜は音を求めて鋭敏になる。周囲には背の高い杉が立ち並び、紛れて落葉樹も見られる。 根本付近に残雪。

山中であることは間違いないが、杉の並びは規則的で、明らかに拓けた場所に見えた。人影も、動物の姿もなく、鳥も雨に歌を奪われたのか、微かな囀りも聞こえない。
 
――不思議な場所だ
 
 
深遠は足元に視線を落とした。白い玉砂利。足を進める。雪と石が軋む音。やっと音らしい音を聞き、深遠は肩の力が抜けたと自覚した。しかし、この場の不可思議さへの警戒は保ったまま。


――意図的に作られた場所
  これは鳥居、いや、祠か?


振り返り、自分が通り抜けたものを見据える。

記憶に中に、同一または類似した形のものはない。門のようにも見えるが、それにしては奥行きがある。大きな祠のようでもあるが、神仏を祀った形跡は見られない。建物の外側、左右にはサカキの木。


――違う、ヒサカキか
  寒冷地なのだな


建物が存在するのは、玉砂利が敷かれた長方形の広場。サカキの代替としてヒサカキが植えられたのであれば、神事を執り行う場の可能性が高い。だとすれば、この地には、それを指揮する人間がいるはず。


――空間の歪みは確かにここを示した
  なにやら謂れのある地のようだが
 
 
深遠は広場の端に寄り、落葉樹の枝に指を伸ばした。


――時は冬
  いや、春か


芽吹きを待つ、まだ固い新芽。肌に触れる空気は冷冷としているが、山は微かに春の香を漂わせていた。

重なるふたつの季節。時の流れが作る希有な空間に、他者の気配が紛れ込む。

「お帰りなさいませ、深遠様」

振り返った深遠。視線の先に、白い輪郭。白銀色の髪を緩く束ね、死装束を纏った存在。白い輪郭は、黒い作務衣に羽織を重ねただけの深遠に近づき、程よく距離をとって頭を下げた。

「よくこの場所がわかったな」
「蝦夷ではカルデラの地で歪みを越えられましたから、おそらく似たような場所に出られるのではないかと」
「そうか……灯馬、この地についての知見はあるか?」
「はい。ですが少し休まれたほうが良いかと。戻られたばかりですし、こちらの時間は流れが急ですから」
「そうだな。そうしよう」

深遠は、灯馬ともに建物へと足を向けた。短い庇の下に入り込み、背負った荷物を下ろす。湿った草履を脱ぎ、足袋を履き替えると、勝手に息がもれた。

「お疲れのようですね」
「予定が狂って食料が底をついてな。物を口にせず5日過ごしたのは初めてだ。それでも生きていられるとは、人間も捨てたものじゃない」
「貴方でなければとっくに倒れていると思いますが……何か調達して参りましょう」
「いや、里におりれば何とかなるだろう。水はまだある」

ゆっくりと首を回しながら答えた深遠。灯馬は目を見開き、建物の様相に興味を向けた。

「これは門、でしょうか? 初めて見る造形ですね」

観音開きの扉が放たれ、中には燭台がひとつ。蝋燭は立っていない。

灯馬は建物の裏手に回り込んだ。裏側にも観音開きの扉。やはり放たれ、表側にいる深遠の姿が見える。否、どちらが表で、どちらが裏であるか、正確には判断できない。両の扉を閉じれば、中は大人がふたり入れるかどうかの狭い空間。屋根は板葺きで、塗りはない。

「神仏を奉る祠ではないようですね」
「俺も、こんなものは見たことがない」
「一体なんなのでしょう? この広場も人の手が加えられているようですし、儀式の場でしょうか」
「おそらくな。この場についての知見はないんだな?」
「えぇ。ただ、ここは数々の民話が残る地のようで、成り立ちに関する伝聞が民話の中にあるかもしれません」
「民話……調べてみるか」

袋の中に手を伸ばし、深遠はアルミ製の水筒を取り出した。蓋を外し口元で傾けたが、喉元を3度動かしただけで、すぐに蓋を閉じた。

「懐かしい水筒ですね。手に入れたのは、明治の終わり頃でしたか」
「俺の感覚だと、使い始めたのはつい最近のことだが」
「貴方が向こう側に行っている間に、また元号が変わりました」
「俺はそんなに長く留守にしたか? 確か大正が始まって間もなく発ったはずだが」
「大正天皇は15年で崩御され昭和となった次第です。今は昭和27年。貴方が戻られるまでに42年が経ちました」
「やはりこっちは時の流れが速い。向こうで迷い人を案内してな。予定より時間がかかった」
「入り込むはずのない人間が?」
「あぁ。今更こっちに連れ帰っても行き場がないだろうと思って、宿災の所に案内した」
「そうですか」

灯馬が厳かに頭を下げ、労をねぎらう。深遠は無言でそれを受け止め、足元に息を落とした。

「無限だな。空間の歪みを繕うなど、悪あがきにすぎない」
「珍しく弱気ですね。やはりお疲れの」
小枝が揺れる音。ほんの小さな空気の揺れに反応し、灯馬は言葉を切った。視線の先に人影。
「おめぇっ! そこで何してるっ」

静の気配を切り裂いたのは、若い女の声。杉並木の切れ間、広場の端に、女がひとり、立っている。

色濃い衣服に身を包んだ女は、その視線を深遠に向けている。鋭い眼差しは、警戒心を隠そうとしない。

「この場に所縁ある者でしょうか?」
「おそらく。君の姿は見えないようだ……灯馬、この辺りの様子を見てきてくれるか? これと似たようなものがあれば教えてくれ」
「はい」
「おいっ……そごで何してる? そんたなどごで何してるっ」

口を開かない深遠に苛立ちを覚えたのか、女は深遠に向かって足を進めた。玉砂利は刺々しい音を放ち、女の心情を器用に伝える。

腰を下ろしたままの深遠。女は口から白い息を吐きながら、その前に立った。

「どっからきた……山神様の庭か? ここ開けたのはおめぇか?」
「山神? 神の庭が存在するのか、この地には?」

深遠は女の問いに答えず、言葉に紛れた謎の解答を求めた。女は深遠の姿形を凝視した後、無言のまま足を動かした。

建物の向こう側に回り込み、そこから深遠を見据える女。深遠は、その挙動を視界に捉えて尚、不動。数秒後、板が窮屈そうに軋み、扉がひとつ閉ざされた。女が元の位置に戻り、未だ腰を下ろしたままの深遠に言葉を落とす。

「ここも閉めっから、どいでけろ……おめぇ他所もんだな。迷ったのか?」
「里へ下りたい。案内を頼めるだろうか」
「ついてこい」
「すまない……よろしく頼む」

残雪に残された足跡。広場に向かうのはひとり分。おそらく女は、何らかの異変を察して広場を訪れたに違いない。深遠は、先を行く女の背中に問いをぶつけた。

「聞いてもいいか?」
「……おらが聞いたのさ、答えてねぇべ」
「すまない。俺があの扉を開けた。だが、山神の庭とやらは知らない」
「そうが……んで? 何だ?」
「あれは、あの建物は儀式に用いられるものだろうか?」
「儀式……んだな、簡単にわかる話じゃねぇ。とにかく、滅多に開けてはなんねぇもんだ」

女は僅かに言葉尻を重くし、深遠はその胸の内を悟った。やはり謂れのある場所のようだ。この場でこれ以上詮索しても、女の口からは何も出てこないだろう。

歩く程に空間が揺らぐ。そんな感覚を携えたまま、深遠は女の背中を追った。道と呼べる程足元は整っておらず、女が落とす足跡が標。

女の頭を飛び越して、前方を確認する。緩やかな下り坂は、いつ尽きるのかを予感させない。左右に迫る落葉樹の枝が時に視界を遮り、まるで、通らせはしないという意思表示に思えた。

「枝、折らねぇようにな」

若い枝に触れた深遠に気づいたのか、女は振り返らずに声を放った。その足取りは軽く、うっすらと寝そべった雪など気にする様子もない。

深遠は慎重に足を進めながら、空間の歪みを探った。自分がここにきたのは、己の務めを果たすため。脱厄術師が背負う任は、結界の歪みの修復。深遠は、その目ではっきりと【歪み】を捉えることができる。しかし今は、歪みの位置が捉えられない。ただただ、空間全体が水面のように揺れ動いている。そんな印象を受けた。


 
――まさか、ここは結界の中なのか?
  だとすれば、かなり大きな結界だが
  まさか、この地全体に及ぶのか……


深遠は更に目を凝らした。別の可能性はないだろうか。自身が導き出した仮説が真実であるならば、これまでに修復してきた結界の比ではない。この場所に安定をもたらすには、相当の労が必要だ。5年、否、10年かかるかもしれない。


――できるのか、俺に


心に陰を落とした途端、残雪に足元をとられる。深遠は左に立つ巨木に肩を打ち、その場に崩れ落ちた。

「大丈夫か……ほれ、早ぐ立て」

女に腕を持ち上げられ、身を縦に戻す。深遠は、改めて空腹を自覚した。思わず唾を飲み込み、息をつく。女は深遠を見上げたまま、その手を分厚い上着の懐へ。皺の寄った小さな紙袋を取り出し、深遠に差し出した。

深遠が袋を受け取ると、女は再び背を向けた。袋の中身は、飴玉。

「……いいのか?」
「全部でねぇぞ。家さ着く前に倒れられだら困る。おめぇみてぇにでっけぇ男、おらぁ、おぶれねぇからな……口さ入れとけ。少しマシだべ」
「かたじけない」

女は声に凛然さを宿し、決して大きくない背中に頼もしさを潜ませ、山を下る。深遠は女の厚意に深く頭を下げ、鼈甲色のいびつな飴玉を口に含んだ。

深遠の体に僅かな糖分が染み渡った頃、視界の左右に迫っていた木立が途切れた。整形された四角い広場。深遠は足を止め、自分が進んできた道を振り返った。

何も見せない
早く行け

そんな風情を見せ、山は両手で顔を覆ってしまった。

女は広場の右斜め前方に進む。そこは、生気を眠らせた枝に覆われた場所。それに隠れた造作物。それが女の住まい。深遠は、そう判断し、女を追って歩を進めた。

板戸をがたつかせ、女は土間に足を踏み入れた。振り返らずに手招きし、深遠を呼び込む。履物の雪を払い、深遠は肩に背負った荷物を下ろし手に提げた。

「かたじけない……しばし邪魔をする」
「ほれ、そごさ薪あっからよ、適当に足してあったまれ」

女は障子を開け、囲炉裏のある部屋を顎で指した。僅かに流れ込んだ暖気と灰の匂い。土間も囲炉裏の間も者が少なく、且つ、整理が行き届いている。

柱時計の針は午後の1時半を告げたばかりだが、雨模様のせいか薄暗い。日めくりの暦はまもなく弥生の終わりを告げるが、春を思わせる色はなく、女以外の者の存在を窺わせる物もなく、囲炉裏に宿る赤だけが、存在を主張していた。

荷物を上がり框に置き、深遠は土間の一角に積まれた薪をひと束掴んだ。草履と、替えたばかりの足袋を脱いで立つ。上がり框が大きく軋み、女の肩を上下させた。

「……おめぇ、日本人だよな?」
「この国の者だ。身の丈は大きいせいで、異国のものかと問われることもあるが」
「どごのもんだ?」
「生まれは武蔵国多摩郡」
「むさしののくに、たまぐん? 知らねぇ場所だ。遠いのか?」
「普通に行こうとすれば随分遠くになる」

片膝をつき、薪を囲炉裏にくべながら、深遠は女の姿に視線を移した。

年の頃、15、6だろうか。目鼻立ちは控えめだが、意思の強そうな面立ち。黒髪は頭の天辺近くで丸く束ねられ、綻びはほとんど見られない。その姿と、部屋の有り様。双方が、女の凛とした声に合っている。

分厚い上着を着たまま土間に立ち、白い顔の中心を赤く染めた女。口元からもれる息は白を強調し、その場の冷感をまざまざと伝えてくる。

「……上がらないのか?」
「物の怪じゃねぇみてぇだな」

女は口元を緩め、大きく息を吐き出した後、上着を脱ぎ、上がり框を踏み鳴らした。

薪は赤々と燃え、囲炉裏の周囲を暖色で満たす。女は冷えた握り飯を鍋に入れ、水を注いで火にかけた。

「しばらぐ待ってろ……こんなもんしかねぇが、腹減らしとくよりマシだべ」
「これを……助かった。ありがとう」

深遠は女に紙袋を返し、頭を下げた。女は袋から飴玉をふたつ取り出し、ひとつを自分の口へ。もうひとつを深遠に促したが、深遠は首を横に振った。

「なぁ、おめぇは何モンだ? あそこさいた理由、教えてけねぇべか?」
「俺は槙深遠。脱厄術師だ」
「だつやくじゅつし?」
「この世の中には、目に見えない結界が施されている。施された結界には時に歪みが生じ、脱厄術師は、その修復を生業としている。結界は空間と空間の継ぎ目に施され、それが乱れて互いの空間が干渉しあうと均衡が崩れる。俺は空間を行き交いながら修復を続けている。今回も歪みに導かれてあの場所に……その歪みの一部が、おそらくあの建物の」
「ちょっと待で! 待で……おめぇ随分変わった話してっとも、誰にでもそう話して聞かせんのか?」
「理解し得るであろう相手にのみ、己の真実を語ることにしている」
「おらは、その話が解ると思ってんのか?」
「君は目に映るもののみで世の中を判断してない。そういう生業の者だろう?」

深遠は言葉を切り、女を見据えた。女は一瞬目を大きくした後、歯を見せて笑った。

女は笑いを止め、しかし緩んだ目元のまま頷いた。

「似だような生き方してんだな。いや、おめぇの方がよっぽど難儀そうだ。おらはただの山護だがらな」
「ヤマモリ……山を守る。そういう意味か?」
「そのまんま」
「では、さっきもそのために? 日々ああして山を巡っているのか?」
「んだ。たまにおめぇみてぇに迷いこむモンもいる。あの場所で人さ会ったのは初めでだがな」
白い手を擦り、囲炉裏の赤に暖を求め、女は自分の指先を眺めながら言葉を繋ぐ。

「こごは不思議な土地でな……山神様、神様が住むちゅう庭、神様さ仕える巫女、九十九神の屋敷、そんたなもんが出てくる民話がいっぺぇある。そんでもって、それらは現実なんだ、こごではな。山護は、山神に仕える巫女を真似て、昔の人間が作り出したもんらしい」
「君は、なにゆえその職に?」
「他になり手がねがった……それだげだ」
「親兄弟は?」
「父親は、おらが生まれる前に戦地さ行ったまんま。顔も知らねぇ。母親は里にいる」
女の表情が曇ることはなかった。しかし深遠は、記憶の中に戦火を見つけた。

「未だ戦中か、この国は?」
「いや終わった、今年で7年になる……おめぇは別の空間とやらに行ってて、しばらぐこっちさいながったんだな?」
「あぁ」

自分の生業を、この女は理解した。ならば話が早い。深遠は傍らに寝かせていた袋に手を入れ、紙を数枚取り出した。

「この辺りの地図を……簡単なものでいい。書いてくれないか?」
「地図ったって……ほとんど山だ」
「山に何があるのか知りたい。あの建物のようなものがあれば、その配置を。熟知しているだろう?」

女の返事を待たず、深遠が鉛筆を差し出す。少し戸惑いを浮かべた顔のまま、女は鉛筆を受け取った。板間に紙を沿わせ、数秒空白を作った後、女の手が動き始める。

単純な線で描かれた山の稜線。それは途切れずひと繋がりになった。繋がった稜線の中に、楕円を描き、女は【村】と書き添えた。この地が盆地であることを意識した絵であると、深遠は受け取った。

女は一旦手を休め、深遠の顔に視線を振った。深遠は音を発せずに頷き、描写の再開を促した。

「……さっきの祠がここ。んで……」

自らの記憶を確かめるように、山の情景を眺めるように、女は時折目を閉じ、口元を動かす。囲炉裏を挟んで対面に座る深遠の存在など無であるかのように、言葉を生まず、気を向けることもなく描き進めた。

山の数箇所に黒丸を置き、それぞれに小さな字を添える。達筆とは言えないが、他人が読むに申し分ない、謙虚な文字。それらを十数個書き上げ、女は長く細い息を吐いた。

「まぁ……こんなもんだな」
「かたじけない」

僅かに上体を前傾させた深遠に紙と鉛筆を手渡し、女は再び息を吐いた。深遠はすぐさま紙に視線を走らせ、自分の脳内に転写した。

女が描いた盆地の絵。文字が添えられた黒丸のひとつ。【九十九神の道】と書かれた場所を指しながら、深遠は問いを投げた。

「ここが、あの場所だろうか?」
「んだ。盆の時期にだけ道が開くんだ、山さ向かう九十九神のためにな。盆は先祖が戻ってきて村ん中が騒がしくなっからよ、九十九神さんらは山神様の庭さ行くらしい……そんないわく付きのもんがこの山さはいっぺぇある。その黒丸、線で繋いで見ればわがっぺ? それがおめぇの探してる結界じゃねぇのが?」
「そうかもしれん……今一度あの場所に行ってみないことには何とも言えないが」

黒い点を線で繋げば、確かに大きな円ができあがる。視線を紙に留め、深遠は静寂を纏った。
囲炉裏の赤はいつの間にか場に染み渡り、鍋は沸々と音を奏でる。女は椀に粥を盛り、箸を添えて深遠の前に置いた。立ち上る湯気が、深遠の視界に温もりを届ける。

「食って腹ぁ落ち着いたら出てげよ……ここは山護以外の人間がいではなんね場所だ」
「あぁ……ところで、君は、名を何という?」
「おらは山護だ。山護は山護になった瞬間、元の名前を捨てる。親から貰った名前を呼ぶもんは、いねぇ」
「そうか……大事な食料、ありがたく頂戴する。いただきます」

深遠は女の名を問い質さず、与えられた厚意に頭を下げた。

久方ぶりに体内に入る食物は、想像以上に脳を刺激した。温かい。喉元を過ぎて胃に落ちた粥は、じわじわと全身に熱を伝える。この温かさには、山護以外の名を語らない女の情が込められている。山深い場所で、山を守り、生きる女。

「少し話を聞いても良いか……君のことなんだが」
「話せることだば話す」

声に潜んだ実直さが、凛とした響きに良く似合う。この女が話せないという話は、おそらく聞いてはならない話なのだろう。

女の言葉を問いの了承と受け止め、深遠は箸を止めた。手拭いで口元を拭き、手を膝に置く。

「この地は、本当に山護を必要としているのだろうか?」
「ん……?」
「模範ではないだろうか? 山神に仕える巫女を模範としたのが山護なら、山護は里の人間にとっての模範ではないかと」
「なしてそう思った?」
「山を敬い自然を愛で清貧とも呼べる暮らしを送る。ひとりで貫くには酷だ。だが、それを見ることで、里の人間は山に、この地に、畏れに似た感情を抱くのではないだろうか?」
「うん?」
「人が仕えるに相応しい、霊験あらたかな山だと」
「山護の生き方が信仰心を促して、人間の私利私欲を抑える材料になるっつうごどだな」
「そうだ」
「つまりらおらは、人身御供として山に差し出されたんじゃねぇかって、思ったんだな?」

言って女は微かに笑みを浮かべた。その表情があまりに儚く、幼く見え、深遠は思わず詫びの言葉を零しそうになった。しかし言葉を生む前に、女が空白を埋める。

「おらは、ただ流れに乗ったんだ。本当は先代で途切れるはずだったんだ、山護は。んでもやっぱり必要だっていう人らもいてな、先代が亡ぐなった時、おらの他にふたり、名前が上がった。ひとりは賢い娘で上の学校さ行くために村を出でった。もうひとりは村で一番めんけぇ娘でな……いねぐなってしまったんだ、いぎなり。大人達は神隠しだ祟りだ何だって騒いで、結局山護は継承されだのさ。ひとり残ったおらに」
「なぜ、断らなかった」
「川と同じだ。簡単に抜け出せねぇ流れもあるべ。たまたま流れが急だった、逆らわねぇほうが良がった。それに出でった娘も、いなぐなった娘も幼馴染……こんな思いさせられねぇ」
「……辛いんだな?」
「こんな風に人ど喋っと、ひとりになんのが怖くなる。んだがら早く食って早く出でってけろ」
「そうしよう……俺も久しぶりに人と話したせいか、喉が疲れた」
「行く時、水は汲んでけ。水筒ぐれぇ持ってんだべ。家の裏さ、沢の水が流れてきてっからよ。村さ行ぐんなら表さ出て右だ。石段下れば道がある」

深遠に向かう視線は途切れ、女の瞳には微かに水分が宿ったように見えた。粥をしっかりと腹に入れ、深遠は椀と箸を流しに運び、清潔な状態にして女の元に戻した。

女は囲炉裏の前から動かず、深遠は水筒だけを手に、家の裏手に回った。山で湧いた水は凍ることなく沢を下り、ここに辿り着く。そんな当たり前の姿が妙に愛おしく感じ、深遠は冷水に手を浸した。細く軽やかな流れは滑らかな棘。皮膚を刺し切れず、なぞって過ぎる。

――お前達は異物を正確に捉える
  だが優しい
  見習うべき所が多過ぎる

水滴に覆われた手をそのままに、深遠は水筒を満たし、土間に戻った。荷物を背負い、女に一礼を。女の気配は静。炎が揺らめく姿さえやかましく思えるほどに。

「幼馴染のひとりは神隠しにあったと言ったな……もしそうなら、俺はどこかでその娘に会うかもしれない」

深遠の呟きに、女は目元を動かした。それでも座して留まり、頷きすら見せない。

「娘の名を教えて貰えないか……縁があればこの地に導けるかもしれない」
「……湖主ハルだ」
「コヌシハル。確かに」

再度女に頭を下げ、深遠は玄関を出た。

何も語らぬと表情を固くした山。それに背を向け、深遠は女の指示通り石段を下った。下り切った場所の左右。背の高いヒサカキ。


――神の領域で生きる人間
  彼女の辿る道は過酷だ


刹那の感傷を風に渡し、深遠は薄雪を踏んだ。黙々と進む背中に、白い輪郭が並ぶ。

「雷騰雲奔(らいとううんぽん)と言うところでしょうか。貴方と彼女、理解者であるがゆえに別れはすぐに訪れる……村に宿屋があります。今宵はそちらで休んで下さい」
「いや、どこか外でいい」
「他人の気配に近づき過ぎましたか?」
「ひとりが常なら孤独は寄り付かない。語り合いたい誰かがいると思えば、孤独は隣に座り込む……面倒な生き物だな、人間は」
「では私もこれにて……明朝、陽が昇る頃にまた」
「あぁ」

小さく言って、深遠が石段を下り始めた、その時。

「美代だ!」

突然の声に振り返る。山護の女が家の前に立っていた。

「おらの名前は美代だ。ハルに会った時、山護っつてもわがんねぇべ。ハル以外の人間さ喋んなよ!」

裸足で、頬を高潮させた女は、言葉を切ると同時に家の中へ。トンと板戸が閉まり、再び辺りは静けさに包まれる。

「彼女も、少し人が恋しくなりましたか……」
「やはり、我々はひとりでいるのがいい」

深遠は僅かに足を速めた。灯馬は周囲の白に紛れて消えた。


――人から与えられた運命を生きる
  他者には理解し難い境遇
  逃れられない道を行く者同士、か
  しかし彼女の生き方に癒しを覚えるのは
  不謹慎かもしれないな


ふいに口元が緩む。笑みを導いたのは、凛然とした女への敬愛。そして、自分自身への嘲弄。

雪を踏み、前へ、前へ。周囲の空気はしっかりと冷えてはいるが、どこかあたたかな、明るい気配を含んでいる。いつの間にか小糠雨は去り、空には青。


――季節の移ろいは
  唯一信じるに値するほど律義だな
  こんな俺でも
  春は待ち遠しい


風が運んだ微々たる春の香を大きく吸い込み、深遠は前へと進んだ。
 
 
 
《 雨、雪溶かす春の調べ - 完 》


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