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Transparent cloud – 3

モニター越しの季節は冬。

窓ガラスには、星型やモミの木型のラバーシール。

モモはモノトーンのボーダーTシャツにラベンダー色のロングカーディガンを羽織った姿で、ベランダにいるS区962―691の女を見つめていた。
女はネイビーのパーカーにダウンベスト。

時々鼻を吸い上げる仕草を見せる。

《 乾くかなぁ 》

女の独り言は、小さなパジャマに向けられていた。裏起毛で生地は厚め。それを裏返し、形を整えハンガーに。その仕草に、モモは一抹の懐かしさを覚えた。

(お母さんもあんな風に干してた……服が日焼けして色褪せるからって)

モモは4ヶ月弱S区962―691の女を監視してきたが、ベランダに並ぶ洗濯物はいつも整然としている。

8時から9時の間に干し終え、15時までに取り入れる。雨が降らなければ、その光景は裏切らずに展開される。

女の生活は規則正しい。午前中は息子とともに近所の公園で過ごす。
息子が同年代の子供達と走り周る姿を、女は穏やかな面持ちで見つめている。

他の子の母親と会話する場面もあるが、おしゃべりに夢中になって子供から目を離す事はない。

怪我を負いかねない危険な行為に関しては厳しい口調でたしなめるが、服が汚れたぐらいでは怒らない。

子供の性格は比較的穏やかで、声を荒げて他人を叩いたり、おもちゃを投げつけたりはしない。

時々母親に走り寄って足にすがる。そんな甘えん坊な姿は、モモが抱く【 負のスパイラル 】への恐怖を払拭してくれる。

(もう少しだから……だから、このままで)

S区962―691の女は、監視対象から外される可能性がある。
12月に入ってすぐ、ブレインから通達があった。

来春、女の息子は幼稚園に入園する予定で、そうなれば女の精神状態に変化が訪れる可能性がある。

どう変化するのか。それを見極めた上で、監視対象から除外する予定だという。

そもそも女は、どんな理由で監視対象となったのか。

(原因はおばあちゃん……か)

モモはS区962―691に関するデータを、脳にきっちり保存していた。


      *


【女の祖母】は、8人兄妹の末っ子として生まれ、乳離れするとすぐ養子に出された。

養父は躾に厳しかった。子供なら当然とるであろう行動も、許しはしなかった。大きな声を出す。食べ物を零す。服を汚す。それらは大いに養父の怒りを買った。

養母はいつも同じ言葉を繰り返した。

『 お父さんの言う事を聞きなさい 』

虐待と紙一重の躾は年月を経ても止まず、耐え切れなくなった【女の祖母】は、養父の酒に農薬を混ぜた。まだ15歳だった。

養父母のもとを飛び出し、住み込みで新聞配達を始めた。しかし店主に手篭めにされ、身ごもった末に放り出された。17歳で女児を産み、場末と呼ぶに相応しいスナックで働きながら子育てをした。

スナックで知り合い、恋に落ちた相手は子持ちの男。何度も結婚を迫った男は断った。気づいた時、男の背中には包丁が突き刺さっていた。

【女の祖母】は殺人罪で逮捕。独り残された女児は、後にS区962―691の母となる。

【女の母】は、乳児院を経て児童養護施設に入所。施設内では平穏な生活を送れたが、学校ではいじめにあった。中学卒業後、定時制の高校に通いながら美容師を目指した。

同級生よりも1年遅れて卒業し、インターンで通っていた美容室に就職した。美容室に出入りしていた電気工と恋に落ち、妊娠、結婚。男児出産。
2年後、S区962―691の女は産まれた。そして直後に夫の浮気が発覚。

離婚は免れたが夫婦仲は修復せず、【女の母】は身近な享楽に溺れた。
パチンコ屋に入り浸り、2人の子供は自宅に放置。2歳になっていた男児は、空腹を満たそうと賞味期限切れのパンを口にした。

咀嚼、嚥下が未熟で窒息。発見時意識は無く、119番通報。生後半年にも満たなかったS区962―691の女は、異様に散らかった部屋の隅で、消防隊員によって保護された。

そして、両親の存在も、兄の死も知らず乳児院へ。その後、ブレインによって選ばれた夫妻に託された。


      *


(彼女は何も悪くない……ただ大人の犠牲になっただけ)

負のスパイラルは、断ち切れる。モモはそう信じている。信じているから監視を続けられる。自分のとっている行動が、【 ここ 】の存在が正しいと信じている。

(貴方は、出来るよね……お願い)

モニターに映る、S区962―691の女。養父母を実親と疑わず、慕い、息子の動画を頻繁に送っている。夫との仲は良好。

彼女は、息子が幼稚園に通い始めたらパートに出ようと考えているようだ。
空いた時間をギャンブルに費やしたりはしないだろう。ネグレクトに陥る姿など想像出来ない。

どうかめでたく監視対象から卒業して欲しい。

(こういうの、完全に主観だよね……でも、私は貴方を応援してる)

モモはS区962―691の女に好感を抱いている。良い母親だ。監視対象にふさわしくない。

ミドリから監視を引き継いで間もなく、そう感じている自分に気づいた。
過去2人の監視対象者は男で、いずれもクズだった。

何でこんな男と暮らすのかと、同居している女にも嫌悪感を抱いた。その反動もあってか、S区962―691の女には安心感すら抱いている。

主観を持たずに生きるなんて無理。しかしアイズである以上、客観性を持って判断を下さなければならない。

(この人と一緒に、私も卒業かもね)

芽吹いた可能性は、意識すると大きく育ってしまいそうで怖い。【 ここ 】を解雇されたら、どこに行くのか。モモには見当がつかなかった。

S区962―691の女が室内に姿を消し、ベランダにはお手本のように並べられた洗濯物だけが残った。風に色は付いていないのに、洗濯物が揺れる景色は薄いグレーに見える。

きっと、外は寒い。12月の乾いた風が、頬を刺すに違いない。

「モモ! ちょっと」
「!」

モモの心臓を殴ったのはアオの声。ビクリと持ち上がった肩が、微かに痛む。

「モモっ! 早く」
「今、行く」

アオに気づかれないよう深呼吸を済ませ、モモは席を立った。

タッチパネルに手を置いて、アオは正面モニターを凝視している。モモが隣に立っても視線を振らず、長い睫を時々瞬かせる。

「見て……もうヤバイかも」

アオの手元。サーモグラフィが捉えているのは、女の輪郭。顔面付近は青。腕、足は薄い青。胴体は黒に近い。

(こんな色って……)

この人物は、激しく落ち込んでいる。モモは女の心情を色で判断した。
しかし5秒と経たず、女の色は変化した。顔の中心と胸部が赤に染まり、その赤が肩、腹部に伝播する。

(変わった……これは)

苛立ちの色。

モモがタッチパネルに集中を傾けると、アオは一瞬モモの表情を捉え、時計に眼球を振った。

「もう1時間、この状態の繰り返し」

モニターに映し出されているのは、狭小住宅と狭小住宅の間に作られた、畳2枚分にも満たない庭。

日差しの恩恵が少ないその場所で、女は上下スウェット姿。足元はサンダル履き。右足は包帯で覆われている。

掠れた茶髪は風に弄ばれているが、それを気にする様子はない。どこを見ているかもわからない女。その右手。刃の隠れたカッターナイフ。

アオの指がスピーカーの音量を上げる。くぐもった泣き声。泣き声というより叫び声に近い。音は家の中から。ガラス越しの声は、確実に女に届いている。女は眉間に皺を寄せ、奥歯を噛み締めながら唇を動かした。

《 …………うるさい 》

泣き声がボリュームを上げる。女の右親指に動き。

途端、アオの手がタッチパネル上部のアイコンをタップした。アイコンには Request(リクエスト) の文字。エキスパート要請。

女はガラス戸を振り返り、カッターナイフを持ったままガラスに拳を叩き付けた。伸びた刃はおよそ5cm。泣き声は止まない。女は再びガラス戸を叩いた。2度3度、4度目は両手で。

《 うるさいっっ!!!! 》

5度目は怒号とともに蹴りが入った。庭は住宅の中に埋もれ、他人の視線は届かない。宙に響いているはずの音に反応を示す者もいない。

右モニターには移動する青い点が3つ。到着までのカウントダウンは2分を切っている。

「アオ、カットインは? ……ねえ間に合わないかもしれない!!」

タッチパネルに伸びたモモの手を、アオが制する。

「やだ離して! 間に合わなかったらどうするの!?」

アオの視線はタッチパネルの女へ。
女の上半身はマグマのような赤。
その色に、モモは見覚えがある。
怒りの色。
排除されたA区881―831の男が頻繁に見せていた色。

「やだ死んじゃうよ! 死んじゃう、殺される!!」

モモは制された手を激しく動かした。アオがぱっと手を放す。モモは自分の生んだ動きの反動でよろめいた。

よろけた体を抱きとめたのはシロ。シロはそのままモモの体を強く抱き締め、動きを制した。

「大丈夫。ちゃんと見てて」

モモの耳元。入り込んだシロの声は穏やか。

アンバランス。

モニターの中の景色とシロの穏やかさがアンバランス過ぎて、モモは一瞬眩暈を覚えた。

「ほら、着いたよ」

シロの響きがモモを揺らす。

住宅と住宅の隙間から現れた、紺色の制服。その存在に気づいた女。エキスパートの口元が動いている。音は届かない。女が首を横に振る。茶髪が激しく揺れ、口元が大きく動き、カッターナイフの刃が女の左手首でスライドした。

赤 腕を伝う赤
紺 走り寄るエキスパート
崩れる女 抱き上げるエキスパート
手首 白いハンカチ
染める赤




「何で…………アオ、何で?」

繋がる言葉はない。
モモの奥歯。細かく振動。
鼓動が体から漏れ出しそうだ。
この感情は怒り。否、悲しみ。
わからない。

モモの体を包んでいた熱が去る。シロは自分のデスクへ。

「モモ、戻りなよ」

背中に刺さったクロの声。冷えた響き。

アオは振り返らない。小さな庭に広がる出来事を見続けている。

家の中から紺色の制服姿が現れる。2人。小柄なエキスパートの腕に、新生児。泣き声は流れたまま。女の手首には処置が施された。

一番背の高いエキスパートが女を背負い、赤ん坊を抱いた1人とともに家の中に消える。残った1人が、お決まりの言葉を放つ。

《 排除、保護、ともに滞りなく 》

エキスパートは排除・保護を遂行した後、速やかにその場を去る。
警察ではないから、現場検証等はしない。

赤ん坊の泣き声は完全に消えた。あの子はこれからどこに向かうのか。女は病院で正式な手当を受けるのか。アイズには何も知らされない。監視対象者とは、まさに監視している間だけの付き合い。しかも一方的な。

(わかってる。それが私の仕事。だから……だから落ち着いて)

何とか直立を保ち、モモは拍を上げたままの心臓を、服の上から押さえ付けた。

深呼吸をして1歩、また1歩。踏み出した足は震えている。平衡感覚が失われそうで、モモは立ち止まり、手足に力を込めた。

再び1歩。

デスクの端に手を乗せた瞬間、視界に割り込んだのは、アオの体。

「私が見る。モモは戻って」
「え? ……何? 戻ってって何?」
「あっちは一段落したからモモの所、私が見る。モモは部屋に戻って」
「……何で?」
「客観的な判断が出来る状態じゃない」

モモが承諾する前に、アオはモモのワークチェアを占拠した。言葉が出ない。唇が震え始め、モモは口元をきつく結んだ。

シロとクロはそれぞれモニターに集中している。助け舟はやって来ない。アオの手がモモに伸びる。手にはモモのタブレット。ほら、と言いたげに2度上下させると、アオは手を止めた。

「お疲れ様、早く行って」

モモはタブレットを受け取り、頬に湿り気が帯びる前にワークスペースを出た。


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