宿災備忘録-発:第1章1話
■ あらすじ
山護美影は、山懐の町、湖野(コヤ)の御神体・九十九山に仕える祖母の元で育った。祖母が亡くなり、湖野を出て東京で静かに暮らしたが、ある日突然、見知らぬ男達に捕らわれてしまう。
美影は男達から【宿災/シュクサイ】であると言われる。宿災とは生まれながらに災厄を宿した存在。全く信じられない美影だが、宿災として生きる槙久遠の強引な導きにより「見えていなかった真実」と向き合わざるを得なくなる。
久遠らと共に湖野へ戻った美影を待ち受けていたのは、湖野の伝承と符合する謎の数々。そして、九十九山へ近づくにつれ、美影の中に眠っていた記憶が甦る……
自らの中に真実を求める、ミステリアスファンタジー。
■ 本編:第1章1話
〇 始 〇
ある日突然目の前に現れた流れ
行き着く先は何処か
顔を覗かせた好奇心
そっと浸した足に流れは容赦なく絡みつく
巻き込まれる
抗えない
駆け巡る焦燥感
僅かに足を浸しただけのつもりだった
すぐに戻るつもりだった
振り返った視線の先
あの時の自分は背を向けて戻る場所など示さない
見くびった代償は紐解かれる運命の受容
真実の境界線は、どこだ
流れの先
いざなう渦
その中心で手招くのは己の深部に宿る真実
目を逸らしたい真実
目を逸らす理由は、何だ
闇を恐れるような単純な恐怖
その後ろで好奇心がほくそ笑む
恐怖と好奇心は背中合わせ
互いの存在を否定しながら決して離れず
真実を見極めようと固く手を握り合う
***
「みこさま、みこさまぁ!」
少女の声
可憐な花を揺らしたような軽やかさ
重なる鈴の音
草地を走り周る気配
若い緑の香り
空間を吹き抜ける風に紛れて聞こえる歌
掠れて震えた悲しげな歌
月夜にいななく高らかに
いずこいずこと高らかに
月 微笑みて我を照らし
今宵も我に何も語らず
月夜にいななく高らかに
いずこいずこと高らかに
声 枯れ果てて風に嘆き
空をさまよい何も届かず
「みこさま、どこ……みこさまぁ!」
***
目覚めの瞬間、夢を追いかけて、無意識の中に手を伸ばす。伸ばした手が夢に届いたことは、ほとんどない。無意識の扉は素早く閉じ、同じ夢には、きっと、もう会えない。
――また、同じ夢を見た気がする
山護美影は「ひっかかり」を覚えながら目覚めた。いつもなら、再び密着したがる瞼を引き離し、緩い気合で起き上がる。しかし今は、瞼を開けることも、起き上がることもできない。
瞼が重いから、ではなく、痛いから。体も同じ。全身が強烈な筋肉痛にでもなったかのように痛い。ひと月後には22歳になるが、ここまで生きてきて、こんなに痛みを感じたことはない、と断言できるほど。どうしてこんなに、と自問して、美影は思い出す。昨日の「あれ」が原因ではないか、と。そういえば、あのあと自分は、どうしたのだろう。今に至るまでの記憶がない。布団に横たわっているようだが、ここは、どこだ?
室内であることは確か。空間は静。しかし無音ではない。微かに自動車の走行音が聞こえる。さほど切れ間はない。割と大きな道路が近くにあるようだ。
――アパートじゃない
美影の住まいは、築年数の経った木造2階建てのアパート。幹線道路からは離れていて、家のそばを通る自動車は少ない。しかし気密性の低い建物だから、自動車が通れば音はよく聞こえる。
それに、この空間は涼しい。8月中旬ともなれば、東京は体温と変わらない暑さになる日も少なくない。美影のアパートは、エアコンがいくら頑張っても熱気は完全には消えない。しかし今は快適な温度に包まれいている。掛け布団があるにもかかわらず、だ。自宅ではないなら、どこだろう。病院だろうか。
痛みに支配された瞼をこじ開ける。白い天井。光のないシーリングライト。照明は消えているが、室内の様子はしっかり見える。夜ではないようだ。左側が明るい。自動車の音はそちらから。首を動かそうとすると、結構な痛みが走った。眼球を、できるだけ左に動かす。カーテン。カーテンの向こうは明るい。眼球を右に。薄暗い。誰かがいる気配はない。病院の個室だろうか。
――静か過ぎない?
心臓の音が、鼓膜を叩く。
――あのあと、あの人達はどこにいったの?
美影は、全身の痛みの原因と思われる出来事を思い出していた。帰宅中、自転車で何かにぶつかり、転倒して、強く体を打った。ぶつかった「何か」がはっきりしていれば、単純な衝突事故。しかし美影は、何にぶつかったのか、わからなかった。なかったのだ、何も。カーブを曲がる直前、しっかりとカーブミラーで確認した。曲がった瞬間も前方には何もなかった。それなのに何かにぶつかって派手に転んでしまった。それだけでも混乱するのに、わけのわからないことが、続けて起こった。
『大丈夫か? 山護美影』
黒い服を着た、黒い髪の、背の高い男。知らない顔。聞き覚えのない声。
――会ったことないよね。私が忘れてる……?
記憶を遡ろうにも、道標がない。同じ年頃の男性と知り合う機会など、皆無に等しい。たまには声をかけられるが、一方的なもので、美影は相手の顔すら見ようとしない。雑に扱ってしまった男たちの中に、あの男がいたのだろうか。
「あ、起きてるね」
突然聞こえた他人の声。美影の心臓は大きな拍を打ち、それにつられるように体が動いた。同時に痛み。思わず顔を歪める。
「ごめん、びっくりさせちゃったね。そのままでいいよ。カーテン開けるね。窓もちょっとだけ」
光と熱気が部屋に入り込む。眩しさに顔をしかめると同時に痛みを覚え、美影は小さく、痛い、と声を零した。
「まだ痛むよね。山護美影さん」
「私のこと、何で」
「うん、それは追々。昨夜ちらっと会っているんだけど、僕のことは覚えてないよね」
「……はい」
「なるほどねぇ、本人の意識は沈んでる状態だったってことか……」
「あの、ここは病院ですか?」
「入院するほど怪我をしたのかって思うほど体が痛いんだね? それにこの雰囲気。病院って白っぽくて静かなイメージだもんね。全部が全部そうってわけじゃないけど、うん、そうか、安心した。自分の置かれた状況を探ってたんだね。意識はしっかりしてるみたいだね。ここは病院じゃないよ。でも僕、医師免許は持ってるから。はいこれ」
男は賞状のような紙を広げ、美影に示した。筆文字の「医師免許証」。「東京都 中森 心一」と書かれた紙を、ほら、というように美影に見せ、男は笑みを浮かべた。
「今はカードタイプの資格証もあるんだけど、これのほうがそれっぽいでしょ?」
それっぽい=医者っぽい、という意味だろうか。美影は無言で男を見据えた。悪い人間ではない、とアピールしているのだろうが、お医者さんなら安心です、とは思えない。医者だって、悪事を働いた前例はある。
「疑ってる? そうだよね、そりゃそうだ……山護美影さん、この状況に戸惑っていると思うけど、ここには危険はありません。君に危害を加える気は全くないです。僕らは君に対して友好的な関係を求めています。だから、そう警戒せずに、ってなにいってるんだろう僕。変な言い訳しちゃってさ。警戒するに決まってるよね。でも本当に悪意があって君をここに連れてきたんじゃないから。理由はちゃんと説明します」
中森は少し早口。しかし口調は柔らかい。部屋の隅に置いてあったのか、折りたたみ式の椅子を持ってきて、美影のそばに座った。
「ちょっとでいいんだけど、お話しできそう?」
「……はい」
「ありがとう。あ、飲み物なにか持ってこようか? お腹は空いてない?」
「あ……いえ、大丈夫です」
「そう。なにか欲しくなったら遠慮なく言ってね。自分になにが起こったのかは覚えているかな。話せるようなら話してくれる? 記憶の確認をしよう」
記憶の確認。そう言われて美影は、小さく頷いた。
「帰宅途中、自転車で、なかにぶつかりました」
「何にぶつかったの?」
「わかりません……何もないと思って、カーブを曲がったんです」
「でも何かにぶつかったんだね?」
「はい」
「それから?」
「転んで、アスファルトに強く体を打って……」
金曜日で給料日。月に一度の「ご褒美ディナー」をカゴに積んでいたから、運転は慎重だった。カーブに差し掛かった時も、ちゃんとブレーキをかけながら、ゆっくり曲がったのに、頑丈な壁にでも激突したかのように、前輪は横にそれ、衝撃でハンドルから手を放してしまった。美影は状況を思い出し、息を吐いた。自転車と荷物、自分へのご褒美はどうなったのだろう。
「山護さん、具合悪い?」
「いえ……えっと、声をかけてきた人達がいました。黒い服と、白い服の」
――服? 洋服じゃない。襦袢のような、死装束のような、不思議な格好
「そのふたりは君の様子を見て何か言った?」
「黒い服の人が、大丈夫かって……それと、私の名前を知っていました。私は、あの人を知りません」
「うん。白い服の人のことは?」
「知りません。白い、着物、の人が、手を貸してくれて……」
肩を隠すほど伸びた白い髪の男が、手を差し伸べてくれた。美影はその手を思い出す。包帯のような布でぐるぐると巻かれた、血色のない手。はみ出した指先は、とても細かった。
「山護さん……その後は?」
白い男は隣に
視線がぶつかる
青い
深い湖のような青
吸い込まれる
ぐらり
眩暈
目の前の青が赤に染まる
もっと吸い込まれる
ぐらり
また眩暈
体が沈む
力が入らない
「その後のこと覚えてるかな」
「……白い、男の人が」
美影は言葉を止めた。自分の記憶は、正しいのだろうか。目の色が変わった、なんて。そんなことあるはずがない。そして、その目に吸い込まれるようして意識を失った。そこから今に至るまで、記憶はないのだ。もしかしたら、倒れた衝撃で意識を失い、そのあとのことは全て、夢かもしれない。
中森は、美影の言葉をしばらく待った。そして小さな頷きを。
「自分の記憶に自信がない?」
「……はい」
「正常!」
「え?」
「信じられないようなことが起こったから記憶に自信がない。それが正常。君の記憶が正しい証拠だよ。僕の身に同じことが起きたら、今の山護さんのように、あれは真実なのかな、勘違いじゃないかなって考えてしまうと思う。とても人には話せないって」
中森は目元を緩めた。とても穏やかな笑み。
またあとで、と言い残し、中森は部屋を出て行った。窓から入り込む風は、夏の熱気を孕んで、美影の肌に触れる。車の走行音。雨が降る前の湿気った匂い。もうすぐ、雨がやってくる。ふと、黒い男を思い出した。
――あの人、雨の匂いがした
軽快に走る自転車
夕焼けが残る空
湿った空気
天気予報は次の日まで晴れ
埃っぽいアスファルト
倒れた体
呼ばれた名前
振り返った視線の先に黒
微かに感じた雨の匂い
美影は大きく息を吸い込んだ。夏の熱っぽさに混ざる、排気ガスの匂い。どこか懐かしい雨の匂いは、まだ遠い。
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