捨て犬男とノラ猫女:Jun.3
「女が仕事に邁進しようとするとさあ、諦めなきゃならないものが出てくるじゃない? 結婚とか出産とか」
つい先程の勢いが嘘のようだ。大野はテーブルに肘をつき、小柳に同意を求めるように視線を送っている。
「男のほうが気楽とは言わないよ。でもさあ、女は結婚しないと周りから言われるじゃん? まだなの、いい人いないのって。出産だってそうじゃん。早めに産めって言ったり、育てられないなら産むなって言ったり、母親が働いていると可哀想とかさあ……誰の意見が正しいのかわかんないよ。ねえ?」
大野の言葉に深く頷いているのは、小柳ひとり。正直、男にとっては踏み込みにくい話題だ。いつもは饒舌な森川も沈黙。篠田は聞いているのか、それとも眠っているのか、目を閉じ、難しい表情を浮かべている。
賢太は、空気が重くなったと感じた。デザートでも頼めば、また楽しい雰囲気に戻るかもしれない。メニューに手を伸ばす。同時に篠田がぱっと目を開いた。
「いや頼もしい。二人とも頼もしいよ。そういう事を今からしっかり考えてるって、それだけ真剣だって事だもんな。夢や仕事に対してさ。良しほら、好きなデザート頼みな。俺も食べるし」
うまく話題を切ってくれた、と賢太は安堵を覚えた。女性だけの問題ではない、俺達もともに考えよう、なんて言い出さなくて本当に良かったと心から思った。
結局全員がデザートを頼み、テーブルの上は一気に華やかになった。大野は半分眠ったような状態で和風パフェを食べている。小柳はシャーベット。男三人は、特製プリン。
「そういえばさ」
小柳が唐突に口を開き、賢太はビクリと肩を持ち上げた。
「何? びっくりした?」
「あ、うん、ちょっと……」
「仕事のダメ出しでもされるかと思った?」
「あ、そういうわけじゃないけど、普通に、音にビックリした」
「ビビリか! って、ホントに一条君の事なんだけどさ」
「え? 俺?」
「大学では何を専攻してたの?」
賢太の心臓は大きく跳ね上がった。まさかここで、そんな話題を振られるとは思っていなかった。
大学の頃の話をしたのは、いつが最後だろう。もう思い出せないくらい前だ。卒業してまだ二年。しかし、ずっとずっと昔の事のようだ。
「学部は? どこ?」
「えっと……経済」
「そうなんだ。経済学部の就職ってどんな感じなの?」
「あ、えっと……色々、かな。全然違う分野に行くヤツもいたし……」
わからない。知らない。自分は就活をしていない。正直に回答すれば良いのに、繕ってしまう。早くこの話題が終わればいい。何故ここにいるのと問われる前に。
過去の話はしたくない。自分の勇気のなさを思い出してしまうから。本当にやりたいことを思い出してしまうから。やりたいことをやりたいと言えない自分を嫌いになるから。やり始めない自分を嫌いになるから。
妙な感覚だと賢太は思った。つい先程まで気楽に話していた相手なのに、あれは嘘だったのか、これを聞き出すためのフェイクだったのかと、怒りに似た感情が湧いてくる。
――マジで……何なんだよいきなり
トイレに行くと言って逃げよう。賢太が腰を持ち上げようとしたタイミングで、鋭い金属音が響いた。うとうとした大野が、床にスプーンを落とした。それを篠田が素早く拾い、店員に、交換お願いしますと声をかける。
「篠さん、ありがとぉ」
「どういたしまして。眠いよな、連勤だったもんな」
微笑みながら大野の頭を撫でる篠田。少し照れたような大野。目の前の光景に、賢太は安堵を覚えた。刺々しい態度をとりそうになっていた自分を引き留めてくれた気がして感謝すら覚えた。このまま、あの話題が終了してくれたらいい。
賢太は小柳を見ないようにした。間にいる森川はスマートフォンをいじっている。デザートを食べ終えれば解散だ。早く、その時がくればいい。
「何かさぁ」
篠田がため息交じりに話し始めた。
「俺にとっては相当昔の話って感じだよ。学生時代って」
せっかく話題が消えたと思ったのに、篠田まで学生時代の話を持ち出すのか。賢太は穏やかな口調で語り始めた篠田を見据えた。その口元が、ふっと笑ったように見えた。
「俺の親父って、元検事なんだけどさ」
「え?」
小柳は背筋をピッと伸ばして驚きを表現する。森川はスマートフォンから視線を外し、目を大きく開いたまま口を動かした。
「検事って、あの検事? 裁判の時にいる?」
「法廷に出るほうじゃなくて、捜査検事ってやつ」
「ドラマでよくあるやつ? 起訴しますとか不起訴ですとか言う、あれ?」
「そうそう、あれ。で、地検をあちこち回っててさ、ほとんど単身赴任だったんだよね」
何故、篠田は突然父親の話を始めたのだろう。賢太は、自分だけが持つ疑問ではないはずだと思いながら、言葉の続きを待った。
「俺、三つ上の兄貴がいてさ、親父の代わりに勉強見てくれたり、遊んでくれたり、しっかり面倒見てくれてさ。しかもすっげえ優秀なの。今は弁護士してる」
「マジで?」
森川はいつの間にかスマートフォンをしまい、テーブルに乗り出して篠田を見据えていた。
「検事と弁護士って超エリートじゃん。え? もしかして篠田さん、司法浪人ってやつ?」
篠田は、はっきりと首を横に振った。
「俺は法学部に入れなかった。二浪して終了」
「でも法学部は二浪なんて珍しくないでしょ。難関なら当たり前って感じじゃん?」
「そういうやつもいるけど、俺はもういいやって思った。予備校生のまま成人しちゃったし、もう親や兄貴に世話になるの申し訳ないと思ってさ。地元の会社に就職した」
「就職してたんだ。何で辞めたの? 篠田さんの頃だって今と同じくらい就職難だったんじゃない?」
いつの間にか、篠田と森川のトークになっていた。大野と小柳は、じっと篠田を見ている。貴重な話だと感じているのだろうか。賢太は皿にプリンをひと口残したまま、話しの続きを待った。
「小さい輸入業者だったんだけど、俺は五年目で経理任されたんだよね。で、ある日納品書の数字がおかしいって気づいて、社長に指摘したんだ」
「数字がおかしいって、何?」
「商品単価。ホントに小さな違いだったんだ。例えば、先月まで五十円だったものが七十円になってるぐらいの。自分の財布だったらさ、どっかで払い間違えたのかなとか、記憶違いかなって感じで終わるけど、会社の金だからね。しかも相手先からの入金に関わってくるところだったから」
「え? つまり……」
森川は、早く続きを、といった表情。篠田は、ふうっと息を吐いて、テーブルに身を乗り出した。