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捨て犬男とノラ猫女:Rainy season 1

梅雨の中休み。早番が終わって外に出ると、しっとりとした風が賢太の頬に触れた。西の空はソフトなオレンジ色。天気予報によると明日はまた雨らしいが、今はそんな気配を微塵も感じない。

明日は遅番。今夜は比較的のんびりと過ごせる。篠田や森川がいれば立ち食いソバぐらい寄って帰るのも良いと思ったが、二人ともいない。休みの前日ほど気が休まるわけでもない。賢太は念のために持参した折り畳み傘をジーンズのポケットにねじ込み、スーパーマーケットに向かった。

スーパーの中でも帰り道でも、美弥子と同じような服装の女を見かけると、心臓がドンと大きく拍を打つ。働いている時は、忙しさが気を紛らわせてくれるが、街の中ではそうはいかない。特売のシールのついた惣菜を眺めながらも、美弥子の姿を探してしまうのだ。

部屋に戻り、最近買った小さな折り畳みテーブルに夕飯を並べる。ひじき煮とグリルチキン、特売品のおにぎりが二つ。テレビを相手に完食し、プラスチック製の器を洗って終了。紙パックに少し残った麦茶を飲み干すと、呼び鈴が鳴った。

「こんばんはー」

覗き穴で確認する前に、来訪者の正体は判明。ドアを開けると、美弥子が立っていた。

「おっじゃましまーす。あ、もしかしてもうお夕飯食べちゃった?」
「あ、うん、ついさっき」
「おお、惜しかったね……でもいいや。はいコレ。これからの季節に欲しくなるものだよ」

美弥子は手に提げていた紙袋を賢太に渡す。中身は箱入りの素麺。贈答用といった雰囲気。濃縮タイプの麺つゆも一本入っている。

「ありがとう。え、これ貰っていいの? 何か凄く高そうだけど」
「ケンタくんへのお中元。ちょっと早いけど」
「お中元? 古風だね」
「古風! 初めて言われたそんな事。友達の職場でね、お中元を五人に贈るっていう謎のノルマがあって。贈り物だから、それなりの値段がするじゃない? 私達の年齢じゃまだお給料安いし困ってたみたいで。それで私も協力したんだ。変なノルマだよね。何かね、この中から買って下さいみたいなカタログがくるんだよ。夏だから素麺って単純に決めちゃったけど、ケンタくん何が好きなのか聞いとけば良かったね」
「あ、いや、素麺好きだから嬉しいよ。ホントにありがとう」

今度一緒に食べよう。そう続けられない自分に、賢太は苛立ちを感じた。

会ったら何を話そうか、頭の中には箇条書きでメモしてある。しかし、いざ美弥子を目の前にすると、うまく音に表せない。美弥子の声や表情を採集するのに忙しいからだろうか。それとも自覚が足りないだけで、相当緊張しているのだろうか。

賢太が自分の気持ちを探りながら、素麺をどこに飾ろうか決めかねていると、美弥子は当然のようにベランダに立ち、景色を眺め始めた。持参したホットのミルクティーを飲みながら。

オレンジキャップのペットボトルは季節に合わない。賢太はそう思ったが、女性は冷えを気にすると聞いた事がある。ただ好きなだけかもしれないし、間違えてホットを買ってしまったのかもしれない。兎にも角にも、美弥子はミルクティーを飲める。新たな情報を、賢太は手に入れた。

美弥子の服装は、チャコールグレーのスウェットTシャツにストーンウォッシュのスキニージーンズ。くるぶし丈の靴下。そして、いつもの赤いポシェット。玄関の赤いスリップオンは真新しく見えた。同じものを買ったのだろうか。服装を決める時、靴に合わせるとまとまりが良くなると美容師に教わった事がある。美弥子は赤いスリップオンにこだわりがあるのかもしれない。

――そういうのを聞けばいいんだって。話題としてまずそういうのを

ふうっと長く息を吐き出し、ベランダに視線を。美弥子はベランダからテレビを覗き込んでいた。天気予報。明日は、やはり雨らしい。

「明日、雨なんだね」

賢太は、テレビ画面で充分確認できるであろう事実を口にしてしまった。美弥子は、そうだねといった様子で頷き、再び視線を外に向ける。

――なるよ、そうなるよな

素麺をテーブルに置き、賢太は窓辺に立った。

「テーブル、買ったんだ」

本当にどうでもいいことを口にしてしまった。

「お部屋の雰囲気に合ってるよね。和室にテーブルって難しそうだけど、選び方上手だね」
「合ってる、か。そう、良かった」

褒められて、素直に嬉しい。

「段ボールテーブルも、あれはあれで素敵だったけどね」

美弥子は割と、人を立てるタイプなのかもしれない。賢太はニヤつかないように注意しながら、次の話題を探した。

美弥子はまだ、ベランダにいる。テーブルの値段や、どこで買ったのかなんて話は興味はないだろう。長続きしそうな話題はないだろうか。賢太が考えあぐねいていると、生ぬるい風が部屋に進入した。

汗が気化して体温が奪われる。いつの間に、こんなに汗をかいたんだろう。賢太は、もっと風に触れたいと足を進めた。気配に気づいて振り返った美弥子と視線がぶつかる。

「ケンタくんもベランダ出る? って私がサンダル使ってるね。ゴメン」
「あ、いや、ここからでも見えるし……その景色、好きなの?」
「え?」
「前にもそこに立ってたから……そんなに、いい眺めじゃないと思うけど……」
「多摩川があるなって雰囲気はわかるじゃない?」
「ホント、ちょっとだけね」
「それがいいんだよ。目の前にドーンと素敵な景色があったらさ、ここから見てればいいやって思うじゃない? でもちょっとだけなら、もう少し近づけばもっと綺麗な景色があるかもって期待するでしょ? そしたら部屋を出て見に行こうかなって気持ちになる。ならない? なるよね?」

賢太は体温がぐっと上昇したような感覚を味わった。少ししか見えないから自分が近づこう。そんな発想を賢太は持ち合わせていなかった。

――ヤバイ、今めちゃくちゃ感動した気がする

猛烈に多摩川が見たくなった。湿った風に吹かれながら歩きたいと思った。今から行ってみない? そう声をかけようか迷っていると、美弥子がニイっと口角を持ち上げた。

「多摩川、行ってみよっか?」

賢太は頷きながら、体温が更に上昇するのを感じた。


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