Transparent cloud – E②
ひと通り用事を済ませたら次の場所へ。
610、もしくは715を訪ねなさい。
指示は簡潔。文章に続いてURLが一行。迷わずタップ。
表示されたのは円筒形の建築物。
そのフォルムに、モモの鼓動は加速した。
建物の正体は、隣県の沿岸部に位置するホテル。
目と鼻の先には、年中賑わうテーマパークがある。
ここからなら、おおよそ1時間で辿り着ける場所。
(違うよ、これはあそこじゃない)
自分に言い聞かせ、スマートフォンの小さな画面に食い入り、モモはホテルの内部画像を確認した。
【 あそこ 】とは、全くの別物。深く息を吸い、長く吐き出す。
リズムを速めた心音は外に漏れ出さず、モモの中に残ったまま。
「……何からしようか」
自分の音を外に出し、鼓膜を経由して脳に戻す。
佐藤が電源を入れたテレビ。
ワイドショーは勝手に情報を提供してくる。
チャンネルを変え、どうでもいいテレビショッピングに固定。
変哲もない日常の風景。
それを作り出し、そこに身を置いて、気持ちを静める。
しかし思考は正直だ。
ミドリからもアオからも着信ナシ
2人とも私の事忘れた?
それとも何か起きた?
電話してみる?
ミドリ
アオ
どっち?
クロとシロにも連絡しなきゃ
みんなどうしてるの?
気になる
気になるけど
怖い
電波の向こうに、どんな現実が待っているのか。
瞳はみんなにも、【 あそこ 】の真実を話したのだろうか。
もしみんなが何も知らないのであれば、自分は、自分が知った真実を話すべきなのだろうか。
早く佐藤が来ればいいのに。
1人でいると、思考が内へ内へと向かってしまう。
真実を見極め切れない自分に出会ってしまう。
迷って、答えが欲しくて、瞳に会いたいと願ってしまう。
それは果たして、正常な事なのだろうか。
私 どうなってしまったの?
ふらりとキッチンに向かい、モモはラップに包まれた皿に手を伸ばした。
微かにぬくもりが残るオニギリ。
「いただきます」
しっとりとした海苔部分を掴んで、口に運ぶ。
こんな時に食事をするなんて、やはり自分はおかしくなってしまったのか。
ぬるくなった茶をすすり、塩気の効いたオニギリを。
茶
オニギリ
オニギリ
オニギリ
茶
適当なリズムを繋げ、気づけば皿から2つ、オニギリが消えた。
「ごちそう様でした」
残り5個のオニギリを冷蔵庫へ。
湯飲みを洗い、洗面所に移動。
再び、大量の歯磨き粉。
オニギリの余韻を消し去り、鏡に向かう。
結いの無い髪の毛
真っ黒なストレート
露わになっている耳
自分の顔
滑らかな白い輪郭
似ている
自覚して、目頭に刺激。
この感覚は何だ。
この感情は何だ。
溢れる。
溢れる前に、正体を知りたい。
「おうい、お待たせ。行こうか」
玄関に気配。少ししゃがれた佐藤の響き。
ナイス カットイン。
「今、行きます」
声帯を引き締め、震えの無い音を放ち、モモはバッグとコートを手に美雲家を出た。
佐藤の背中を追い、モモは美雲のもとへと急いだ。
頬に触れる空気。12月にしては暖かいが、スニーカー履きの足元は冷気の攻撃をかわし切れない。望未が去った胸元も、妙に寒々しく感じる。
体は軽くなったが、心は一層重みを増した気がする。何故。
もやもやとした気持ちを誤魔化すように、強い足取りで歩く。
佐藤との間に大した会話が生まれる事もなく、おおよそ20分。
病院に到着した時には、全身に軽い汗を感じた。
汗の原因は歩いたから。だけではない。
美雲に何を問えば良いのか。
モモは、それを考えながら歩いていた。
貴方は、卵子提供をしましたか?
大蜘蛛瞳は、貴方の娘ですか?
美雲みなみは、貴方の娘ですか?
私が、みなみの娘だと気づいていましたか?
聡明な美雲が相手。
納得のいく答えが返ってくるだろう。
しかし、病人を質問攻めには出来ない。
ならば、せめてひとつだけ。
どの問いを投げれば、素直に頷ける答えが返ってくるのか。
自分自身の感情の流れを計算してしまう。
美雲の回答を恐れている証拠。
「見舞いのひとつも持ってないね、私ら」
自嘲した佐藤に微かな笑みを返し、ともにエレベーターに乗り込む。
5階で降り、病室へ。4人部屋の窓際。
カーテンで覆われているのは一ヶ所だけ。
残りの3つのベッドには、患者の気配がない。
「失礼します……愛子さん、起きてる?」
「……はい」
佐藤の声に反応したのは、ハリの無い、弱々しい響き。
カーテンが揺れる。
壁とカーテンの隙間から、美雲の顔。表情はゼロ。
モモは佐藤の2歩後ろから、美雲の様子を窺った。
じっと、佐藤の顔を見ている美雲。
口元は動かない。
モモが知っている美雲の雰囲気とは、明らかに異なる。
「愛子さん、私! 佐藤ミツだよ。向かいのミっちゃん」
「……ああ、ミっちゃんか」
佐藤を認識し、美雲の視線はモモへ。
無言の問いかけ。
佐藤がモモの腕を軽く叩き、モモはそれを合図に音を放った。
「愛子先生、大丈夫ですか?」
「そうじゃないよ、自己紹介しな」
「え?」
「えって……アンタ知らなかったの?」
不思議顔のモモの手を引き、廊下へと戻る佐藤。
美雲を振り返り、様子を窺いながら、しゃがれ声を潜める。
「軽い認知症、まだらボケってやつでさ、はっきりしてる時とあんな時とあって。だからうちにベビーカー貸してくれって来た時は、ついにって思ったんだよ。実際に赤ん坊がいて安心したけど……アンタ一緒にいて気がつかなかった?」
「全然……だって、ホントに普通でしたよ。家事もこなしてたし、話だってしっかり通じてたし」
「小さい子がいたから、しっかり出来てたのかもね……ここじゃ、あれもこれも世話されるから、ちょっと進んじゃったのかもね」
佐藤は悲しそうな、寂しそうな、哀れむような、様々な感情を織り交ぜた眼差しを、美雲の方向に飛ばした。同時に美雲は、カーテンの内側に姿を隠した。
ベッドを取り囲んだカーテンは、動かない。
速まった鼓動を携えたまま、モモはバッグを胸に抱き寄せた。
湧き上がるのは、落胆と、安心感。
カーテンの向こうにいる美雲は、自分の知る美雲ではない。
今は問いを投げる時ではない。真実を問わなくて良い。
自分の思考に嫌悪感を抱きながらも、モモは得られた安心感を強く握り締めた。
「どうする? 私は少し話して帰るけど」
「あ……あの、ちょっとビックリしちゃって。すみません、私、また改めてお見舞いに来ます。すみません本当に……佐藤さんにもお世話になっちゃって。ありがとうございました」
「いいよいいよ、あんなことがあって、アンタもビックリしたよね。ほら、これ持っていきな」
佐藤が鞄から取り出した物。
キーホルダーのついていない、鍵。
「愛子さんちの鍵だよ。瞳ちゃんがうちのポストに入れてったやつ。アンタに渡してって書いてた」
「え?」
「また来てよ。愛子さんも若い子と話したら刺激になるだろうしさ。ね?」
モモの手に強引に鍵を握らせ、佐藤は美雲を隠すカーテンの中に消えた。
微かに聞こえた笑い声は、美雲の音。
笑う元気はあるようだ。
胸を撫で下ろした途端、コートのポケットに震え。
液晶画面。メール着信。
送り主は、またしてもF。
周囲を確認し、ひとけのない場所に寄って、黙読。
美雲愛子は軽度の狭心症。
今のところ命に別状はない。
認知機能の低下については、
投薬の見直しで抑えられる可能性もある。
まだ 見てるの?
モモの視線。
天井から廊下の隅々まで、素早く、くまなく走る。
防犯カメラの類は見つけられない。
(考え過ぎか)
病室に体を向け、一礼を。
ポケットの中のスマートフォンをしまい込み、握り締め、モモは足を進めた。
次の場所へ、行かなければ。