Transparent cloud – E⑥
モモは椅子に戻り、完全に冷えたピザを齧った。
ピザを持つ手が震えている。寒さのせいではない。
2人きりになったせい。
テーブルに戻ったミドリは、モモの前に、スティックシュガー2本と、ホットコーヒーを並べて置いた。
「ありがとう」
まずはブラックでひと口。
モモがコーヒーを飲み込んだタイミングで、ミドリが笑いを漏らす。
「やっぱり飲んだ」
「え? 何?」
「僕以外の3人さ、ホテルに連れて来られる前に大蜘蛛さんと面談したんだって。その時に出されたコーヒーを飲んで、その後の記憶がない。つまり睡眠薬入り。眠ってる間に、ホテルに運ばれたって事」
瞳の入れたコーヒー。
夕べモモも、それを飲んだ。
人にもらった飲み物に軽々しく口をつけない。
K区830―482の事忘れたの?
瞳が追伸に書いた忠告。その意味が、理解出来た。
「僕がブレインに呼び出されたの、覚えてる? その時もコーヒー出されたんだ。僕は飲まずに面接を終えた。怪しんでたわけじゃないけど、何となく飲まなかった。あの時飲んでたら、今ここにいられなかったかもね」
「ブレイン=エキスパート=大蜘蛛瞳……あの人は、1人でみんなを監視してたんだね。どうしてミドリだけ、先に呼び出されたんだろう?」
「ん……僕の感情の色を見たのかも」
「何色だったの?」
「それはわからないけど……僕の主観を、色として客観的に見てたって事かな。まあ……うん、何か気になったんだろうね」
ひとり納得し、コーヒーを口に運ぶミドリ。
湯気で曇ったレンズをそのままに、長い息を吐く。
何か誤魔化されたように感じたが、モモはそれ以上追求しなかった。
その代わり、まだ誰にも聞いていない問いを投げる。
「私、あの人に似てる?」
「うーん……あの人の顔、記憶にあんまり残ってない。向かい合って話もしたのに、何でかな? モモの顔はしっかりインプットされてるよ。ポニーテールじゃないと不思議な感じがするけど、これもイメージかな」
ミドリは曇った眼鏡を外し、改めてコーヒーを口に運んだ。
視線はじっと、モモに刺さっている。
それを避けるように、モモはふた口残ったピザを齧る。
あれを書いたきっかけは何?
悲しい出来事?
今でも思い出す?
ミドリはどんな世界を望んだの?
貴方の頭の中に
どんなトランスペアレント クラウドが広がってるの?
聞きたい事は山ほど。
ミドリの音に触れたい。
しかし、目の前に姿があるだけで満足してしまう。
「ん? どうした?」
「え? あ、ううん……あ、F!」
「エフ?」
「Fからまだメールがくるの」
「ああ、そのF」
「Fの正体も、大蜘蛛瞳だった」
「Fがあの人……僕らのスマホはね、FもMも番号登録されてなかった。メールアドレスも」
「そうなんだ」
モモはスティックシュガー2本をコーヒーに投入し、口内に甘みを引き入れた。
沈黙したミドリ。眼鏡は外したまま。
普段レンズの向こうにある、切れ長の目元。
視線はダイレクトに、モモに向かっている。
「何かゴメン。僕がFatherとMotherって言ったから、かえって混乱させちゃったね。モモのお父さんの事、知らなかったから」
「全然そんな事ない! FatherとMotherが頭にあったから、ここに来られたんだと思う。最初にFのメールを無視してたら、愛子先生にも会えなかったかもしれないし」
「愛子先生? 美雲さん?」
「うん……認知症なんだって。だから大蜘蛛瞳の言った事、卵子提供者の件、確認出来ない」
「そっか。でも、仕方ないね……モモは、これからどうするの?」
「家に帰りたい。明日帰る」
「即答だね」
「聞ける人間はお母さんしかいないから。私の家族は、お母さんしかいない」
音を止めたモモ。
一瞬緩んだ涙腺を、大急ぎで引き締める。
モモの変化に気づいたのか、視線をスライドさせたミドリ。
途切れない人波を見つめて数秒、小さく、しかしはっきりと、言葉を紡ぐ。
「家族、か……Family」
「え?」
「Family。家族もアリだね。頭文字はFだよ」
「Fは家族? じゃあMは?」
「美雲さんは、モモに育児を指導した?」
「うん」
「じゃあMentor、助言者とか指導者って意味。でもMysteryとか、単純にMikumoもアリ……コレ、きりがないね。MもFも、人それぞれ、何を想像するのかは自由って、事なのかもね。僕は、イメージを払拭出来ずに一番単純な答えを当てはめたのかもしれないな」
「自由に想像する……ミドリは、FatherとMother以外、何を思いつく?」
「うーん……Fはパっと出てこないけど、MはMikaかな」
「え? ミカ?」
「うん。実夏って、僕の妹なんだ、6歳下の」
「あ……それで詳しかったんだ、オムツ交換とかミルクとか」
少し照れくさそうな笑みを浮かべ、ミドリはコーヒーのカップに視線を落とした。
ミカ。それが女性の名前と認識した瞬間、モモの心臓は大きく拍を打った。
妹と知っても、そう簡単に平常心には戻れない。
これからきっと、ミドリの過去がひとつ、明らかになる。
そう思うと、更に鼓動は走る。
ミドリの言葉を待ちながら、密かに深呼吸。
「僕が小学1年、妹が1歳になったばかりの時、突然施設に預けられたんだ。僕は児童養護施設で妹は乳児院。その時から離れて暮らしてるから、向こうは僕の顔忘れたかもね」
「……会いたいって、思う?」
「うん。でも、何を話したらいいかわかんないよね。妹は両親の事覚えてないだろうし……知らないのが羨ましいって、ちょっと思ったりもするよ」
微笑んでコーヒーを飲み干し、ミドリは眼鏡を手にとった。
「Mか……美雲愛子……愛、アイ。瞳はEye……アイズは、モモにだけ使える呼称だったのかな」
ブツブツと零しながら、レンズを紙ナプキンで拭くミドリ。
「大丈夫? レンズ傷つかない??」
「あ、うん、平気。実は伊達メガネだったりする」
「ウソ!」
「嘘か真か……」
眼鏡を装着し、ミドリは手早くテーブルの上をまっさらにした。
ふいに吹きつける、冬の海風。
太陽が隠れた空は、早くも夜に染まり始めている。
トレイを戻しに席を立ったミドリは、テーブルに戻らず、ゴミ箱の横でモモを手招いている。
駆け足。
到着。
横並び。
「僕も明日帰るよ……ねえモモ。絶叫系、平気?」
差し出されたのは、手袋をしていないミドリの手。
モモはキャラクターの手を装ったまま、その手を掴んだ。