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宿災備忘録-発:第1章3話
ここは一体、どんな場所か。
美影は廊下に出て、周囲に視線を走らせた。
一度姿を消した中森が再び現われたのは、美影の全身から痛みが抜け始めた頃。少し眠ってしまったようで、その間に雨は通り過ぎていた。蒸し暑さで目が覚めると、喉が異様に乾いていた。
緊張感は続いていたが、体に自由が戻ってきたおかげか、中森の言葉に耳を貸す余裕が生まれていた。起きて水分補給をしよう、という提案を受け入れた。
美影が横になっていたのは、病室のような白い部屋。そこを出た廊下も白く、壁も天井も同様。照明は埋め込み式で、灯りはオフ。
廊下の突き当りの壁にはガラスブロックがはめ込まれている。そこから射し込む光の中で、中森は美影を振り返り、刹那目を大きくして見せた。
「こうして離れてみると、ほんっとにスタイルいいね。モデルさんみたい。髪の毛も綺麗な色だし、いいなぁ」
そう言われても、礼を述べる気にはならない。美影にとって、180㎝の長身とひょろ長い手足は、余計な特徴でしかない。おまけに極端な赤毛。街を歩けば無駄に目を引く自分の特徴を改めて自覚し、美影はため息を吐いた。
「早くおいでよ。大丈夫、落とし穴とか危険な仕掛けとかないから」
微笑む中森の右手は、別室のドアノブに。美影は静かに足を進めた。
「どうぞ、こちらへ」
中森はドアを開け、部屋の中へ。美影の心臓は速いリズムを刻む。それを抑えるように、胸元の石をTシャツごと握り締めた。
「ほら入りなよ」
部屋をのぞき込む。黒と白、はっきりとしたコントラストがあった。
部屋の中央。正方形のテーブル、4つの辺に、椅子が1脚ずつ置かれている。ドアから一番遠い椅子に座っているのは、黒いシャツの男。その少し後ろ、凛と立つ華奢な輪郭。ひとつに束ねられた白髪に、白い着物。襟は左前。死装束。
黒と白、2人の視線がほぼ同時に美影に向かう。美影はそれを受け、思わず足を後退させた。
「山護さんの席、ここね。お茶入れるから、座ってて」
中森は黒の正面の椅子の背もたれに美影のリュックをひっかけ、どうぞ、というようにジェスチャを見せると、部屋の奥にあるキッチンへ進んだ。
美影は石を握り締めながら、部屋の中へ。歩行はゆっくり。意識して、ゆっくりと。明るさの割に夏の熱気を感じない。ドアの対面は窓。そこから入り込む風は確かに湿気と熱を帯びている。しかし、その熱に体が温められる感覚がない。緊張のせいだろうか。
入って左側、壁に沿ったシステムキッチン。中森は、そこにいる。右の壁は一面が本棚。雑誌や文庫本が行儀良く並べられていて、一見、危険な要素は見当たらない。
「ほら座って。まだ体痛いでしょ? 無理しないで。ああ、そうだ。腕の絆創膏、取り替えようね」
そういえば、と美影は自分の腕を見た。右腕に大きな絆創膏。初めて見るサイズ。転倒時に擦りむいた場所だ。意識を失っている間に手当てされたらしい。傷口に痛みは感じなかったが、あの時の感覚がふいに再生される。
宙に放り出された体。硬いアスファルトの感触。耳に流れ込む摩擦音。体に走った衝撃を思い出し、鼓動がますます速くなる。心音が体からもれ出しそうで、美影は思わず胸元に右手を運んだ。
――落ち着いて
あの時なにが起こったのか
聞かないと
美影は黒の正面に。黒は、何も言わない。前髪がかかった涼しげな目元。通った鼻筋。一文字に結ばれた口。ひと言でいえば、整っている。黒の視線はテーブルの中央に固定され、数秒観察しても動く気配を見せない。呼吸もしていないのではと思うほど、動きがない。
黒の後方、白髪の男。中性的な顔立ち。青白く、陶器のような質感を持った肌。白の眼差しは美影に向かっている。目が合ったと認識した瞬間、白の口元が僅かに持ち上がったように見えた。しかし白も、人形かと思うほどの静。全身を取り巻く空気は、冷たく、密やか。そこにいるのに触れられない。そんな印象が、美影の体に悪寒を走らせた。
「お待たせしました」
中森がトレイを運んできた。
「緑茶、平気? 冷たいのがいいかなと思ったけど、あったかいのがいい? お湯沸かそうか?」
「あ、いえ、冷たいので大丈夫です。ありがとうございます」
「野菜ジュースもあるよ。でもおにぎりには合わないか。あ、パンもあったなぁ。パンとジュースにする?」
綺麗な緑色が注がれたグラスが3つ。コンビニのおにぎりが6個。中森はそこに惣菜パン3個と紙パック入りの野菜ジュースを追加し、美影の右側に腰を下ろした。
グラスにも、おにぎりにもパンにも、美影は手を伸ばさない。中森はグラスと紅鮭のおにぎりを美影の前に置き、ほら、というように美影の右腕に触れた。断る間もなく、絆創膏の交換が始まる。手際よくことを進めながら、美影に笑みを向けた。
「毒なんか入ってないよ」
「え?」
「警戒してるのかと思って。毒見したほうがいい?」
「あ、いえ……いただきます」
声は震えていた。それに気づかないふりをして、美影は目の前のグラスを手に取った。ひとつ息を吐き、グラスに口を。冷たい感触は喉を滑り落ち体の中心へ。潤いを求める喉は更なる一滴を求め、グラスはすぐ空っぽになった。
美影がグラスをテーブルに置くと同時、
「怪我をさせてしまって、すまなかった」
唐突に黒は立ち上がり、美影に頭を下げ、再び椅子に。黒が座ると、白が美影に頭を下げた。
前触れなくなにかが起こってしまう運気の中にいるのだろうか。美影はなにも言えず、2人を交互に見たあと、中森に視線を移した。
「え、なに、その、これってどういう状況ですか、みたいな視線」
その通り。美影は頷いた。
「彼らのことは、知ってるよね」
「知ってるわけじゃないです。見ただけです」
美影は黒と白に視線を投げる。
「槙久遠だ」
宙を走ったのは黒の声。短く、しかし明瞭に名乗った口は既に閉ざされ、表情も視線も変わらない。ポーカーフェイスと言えばカッコいいのかもしれないが、美影には、ただ不躾で、無愛想な男に映った。男が更なる言葉を発しないのは明白で、美影は白に視線を移した。
「灯馬です」
視線を受け、白が口を開く。呟くように名乗ったその声は、優しく、落ち着きのある響き。
中森は、黙った久遠の顔を覗き込むように、テーブルに身を乗り出す。久遠は、その仕草に答えるそぶりを見せない。
「以上、自己紹介終わり。じゃないよね、久遠君?」
「終わりです」
「だそうです。はい、交換終わり」
古い絆創膏をゴミ箱に捨て、テーブルに戻ると、中森は自分のグラスを手に取った。
「ごめんね山護さん。この子、いっつもこんな感じだから気にしないで。って続きは僕が話すってことだね。ああもう、いつになったら久遠君の対人スキルが上がるんだろう。えっと何から話せばいいかな。山護さん、何から聞きたい?」
言って、緑茶を飲み干す。
「何からって……全部です。なんでこんな状況になってるのか、順序立てて話してもらえると助かるんですけど……できれば自転車で転んだ辺りから」
「順序立てて、か。自転車のくだりは僕じゃ説明できないんだよね。久遠君、そこは君から話してよ」
久遠の口が動く気配はない。なにも始まらない、受身の苛立ち。美影の喉は渇きを訴えている。グラスは空っぽ。その状況にまで苛立ちを覚え、美影は久遠に鋭い視線を飛ばした。
「百聞より一見だ」
ぶつかる視線。突き上げられる鼓動。美影は高速で視線を逸らした。上昇する体温。走り出す鼓動。震えの再来。右手は胸元に。石を握り締める美影の横に、いつの間にか灯馬が立っていた。
「これを」
灯馬は美影に、1枚の紙切れを差し出した。微かに雨の匂いがした。
手渡されたのは写真。緑に埋もれた町。人工物は僅か。山深い盆地の景色。美影の故郷・湖野の、空撮写真。
「それを、よく見てみろ。どう見える?」
久遠の響きは、平坦で静か。
「どうって……湖野の空撮写真、です」
「そのままを見ればな」
「え?」
「やはり、そのままでは見えていない、か……灯馬、頼む」
「はい……山護さん」
隣から名を呼ばれ、美影は顔を振った。目の前に灯馬の顔。視線がぶつかる。深い青色の瞳。目を逸らせない。
青から赤へ。灯馬の瞳は色を変えた。美影は咄嗟に顔を覆い、両瞼を閉じた。写真はひらりと宙を舞い、テーブルに落ちる。
瞼の裏の残像。赤く染まった瞳が美影の目の奥に焼き付いたかのよう。理解不能の現象に思考回路は空回り。激しい心音が伝わる鼓膜に、中森の響きが触れる。
「山護さん、大丈夫? 痛いの?」
首を横に振る。瞼をゆっくりと開き、指の隙間から景色を覗き見る。中森の姿。その顔に滲んでいるのは、あからさまな心配。
「大丈夫です。ちょっと、びっくりして」
美影の答えに、中森は小さく息を吐いた。
美影は両手を顔から離した。隣にいたはずの灯馬がいない。
「もう一度その写真を見ろ」
戸惑いに揺れる心に刺さる、命令口調。ムカツク。それ以外の表現を思いつかないまま、美影はテーブルに落ちた写真を手に取った。
「え……なに、これ」
写真に変化。ほとんど緑一色の湖野の風景が、薄灰色の靄に囲まれている。
「何が見えた?」
「何がって、この靄のこと?」
「どうなっている?」
「……湖野の町をこう……ぐるっと囲むように」
言葉の途中、美影の眼球に激痛が走った。目を閉じ、顔を覆う。
「山護さん!? ちょっと久遠君やめて、もうやめてあげて!」
鋭い響きは中森の物。背中を丸めテーブルに顔を伏せた美影に駆け寄り、その肩にそっと触れる。
中森の懇願が功を奏したのか、美影は痛みから解放された。ゆっくりと顔を持ち上げる。しかし視線は宙を泳ぎ、焦点が定まらない。微かな嘔吐感。美影は再びテーブルに顔を伏せた。
いつの間にか額に汗が滲んでいる。不快感と苛立ち。美影は顔をテーブルに向けたまま、喉元に留めていた思いを放出した。
「説明して欲しいだけなんだけど、この状況を! なんで私がここにいるのか、それを教えてほしいだけ!」
「今説明しても、理解できない」
「話してもらわなかったら、理解できるかどうかもわからない!」
「お前は、目に見えるものしか信じていない。だから今は無理だ」
「目に見えるものって? そんな気持ち悪いものわざわざ見せられて目も痛くなって……何が起きてるのか全然……ますますわかんなくなるじゃない」
勢い良く放った言葉は、沸きあがった嗚咽に飲み込まれる。テーブルに落ちる、生ぬるい一滴。
押し寄せる嗚咽を飲み込み、美影は立ち上がろうと試みた。しかし体は言うことを聞いてくれない。悔しさが、美影の口元に嗚咽を押し出した。
しばらくの間、美影は顔を伏せていた。自分の嗚咽だけが耳についていた。ふいに、自動車の走行音が嗚咽に重なった。急に、部屋の温度が上がった気がした。
泣いて解決できることじゃない
予感がする
きっと
もっと
わからないことが起こる
だから
泣きやなまいと
刹那、息を止め、吐いて、吸って。深呼吸を繰り返す。嗚咽は喉の奥へ引っ込んだ。美影がそう自覚した時、中森の音が流れ出した。
「ねえ久遠君。山護さんはね、知ろうとしてるんだ。逃げないで知ろうとしている。君は説明する責任があるんだよ。僕に丸投げはダメ。話したって信じないかもしれないって、君は君なりに考えて行動しているんだと思う。だけどね、わからないことが重なると、ただただ恐ろしくなる。怒りも覚える。わからないから怖い。怖いから怒る。防衛本能。当たり前の反応なんだ。君が何者で、何を考えていて、何をしようとしているか、ちゃんと言葉で伝えようよ。できるよね? これ以上山護さんに負担かけたら怒るよ」
中森の音が途切れ、微かに、はい、と聞こえた気がして、美影はテーブルから顔を離した。うつむいたまま涙を拭う。ティッシュペーパーの箱が、視界の隅に入った。
「あったかいお茶入れるね。さぁて久遠君。お茶入れ終わるまでに話し始めてね。電気ケトル買い替えたから、すぐお湯が沸くよ。話始めるタイミング、逃さないように」