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捨て犬男とノラ猫女:Mar.3

いつまででも聞いていたい、とはとても言い難いアラーム音。それを止め、賢太はゆっくりと体を起こした。二度寝してしまわないよう立ち上がり、カーテンを開けて部屋に光を誘い込む。

昨日の出来事は、夢か幻か。赤いスリップオンが脱ぎ捨てられていた玄関に視線を。女が言い残した、今度は昼間にくる、という言葉を思い出し、何故か舌打ちが出た。

今日からアルバイトが始まる。今日は制服を受け取って、簡単な研修を受ける予定。適当に朝食を済ませ、徒歩で目的地へ向かう。二十分ほど歩いて到着した場所は、駅前のパチンコ店。数年前にリニューアルしたらしく、外観はモダンで派手なネオンのようなものもなく、そばに寄らないと、何を目的とした建物なのか判断がつかない。

外観は、賢太の中で合格の域。しかしパチンコ自体は全くわからないし、やりたいとも思わない。アパートから徒歩で通えて、時給が高いところを選んだら、ここになった。デスクについて一日中パソコンと見つめ合うよりは、身体を動かしたほうが良い。おそらくそのほうが、時の経過が速いだろう。

――そんなもんだよな、志望動機なんて

履歴書には、全く異なる志望動機を書いて提出した。嘘をついている罪悪感など、微塵も抱かなかった。

事務所に顔を出し、ロッカールームへ案内される。グレーの、いかにも事務的なロッカーのひとつを与えられた。

制服は、黒のワイシャツに黒のスラックス。スニーカーも黒。蝶ネクタイだけが真っ赤。マジシャンか、ジャグラーか。ロッカールームの隅にある姿見の中の自分を笑って、賢太はロッカーの鍵をしめた。

指示された通り休憩室に向かう。外階段の途中で、研修担当の社員と鉢合わせ。会釈をして、社員の後ろにつく。

「一条君は、いくつだっけ?」
「二十四です」
「高卒?」
「あ、いや、一応、大卒です」
「へえ……」

何か言いたげな雰囲気を残して口を閉じた男の胸には、【リーダー 三原】と書かれたバッジがついている。紺色の蝶ネクタイは、社員の印。

三原の第一印象は【神経質そうな男】。痩せ形で長身。髪の毛はダサくない程度に刈り込まれ、眉毛は適度に手入れされている。シャープな面立ちは、賢太の基準ではイケメンの部類に入るが、どこかとっつきにくそうな雰囲気。

「一条君は真ん中らへんかな」
「え?」
「年。一番若い子は十九。一番上は三十ちょっと出たくらいかな。ちなみにオレは二十六」

思ったよりも若いな、と感じた賢太を三原は振り返らないまま、休憩室に到着。

ドアを開けた途端、タバコの匂いと煙が賢太を出迎えた。まさかの昭和な空間に思わず息を止めてしまった。

十人ほどが、会議用のような大きなテーブルを囲んでいた。ある者はタバコを指に挟んだまま、ある者はタバコをもみ消しながら、三原に向かい、おはようございます、と挨拶をする。

男も女も上下黒。蝶ネクタイは、緑色。朝だからか、スモークがかかっているからか、全員の表情が暗く見えた。ただ雰囲気は嫌いではない。

――ギャングの下っ端の部屋、って感じ

今時こんなにスモーキーな空間が残っているのかと、賢太は微かな興奮を覚えた。

三原は、おはようございます、と返しながら、部屋の隅にあるデスクに向かう。賢太はドアの前で足を止めた。

「一条君」
「はい」
「名前のバッジ、左胸に付けて」

デスクの前で、三原は賢太にバッジを差し出している。それを受け取って、賢太は言われた通りに左胸に付けた。

「こっちの部屋は喫煙者専用。今日はほぼ全員吸う人間だから顔合わせを兼ねてこっちきたけど、非喫煙者の休憩室もちゃんとあるから安心して」

朝礼では、簡単な自己紹介をさせられた。名前と年齢、出身地。そしてテンプレ通りの、よろしくお願いします。拍手を貰うと、まだ働いてもいないのに、ひどく疲れたように感じた。

三原以外の人間は、開店準備のためフロアへ。賢太は開店前に、挨拶や客に向けた文言などを学ぶ事になっている。

「大丈夫? 緊張した?」

声をかけられて三原に視線を振ると、笑顔があった。意外な表情だと賢太は感じた。三原の態度を、どこか冷たいと受け取っていたから。

ホワイトボードの前に移動した三原に手招かれ、賢太は小さく首を縦に動かしながら足を動かした。

「今の、お客さんにはやらないでね」
「え? 今の、って」
「中途半端な会釈。しっかり頭を下げて、笑顔を見せて、僕はそちらに向かいますよっていう意思を伝えないと、イライラしてるお客さんはドル箱投げてつけてくるから」
「あ、はい。気を付けます」
「いや冗談だけどね」
「え?」
「ドル箱投げつけるっていうのは」
「あ……」

どう答えたら良いものか。賢太は苦笑いを浮かべるに留まった。三原は声を出さずに笑っている。ニコニコではなく、ニヤニヤといった感じで。

フロアでの立ち方、客のそばに立つ時の位置、通路の案内の仕方など、基本的な振る舞い方と、声の掛け方をレクチャーされる。その後、三原を客に見立て、ひと通りやってみたところで、三原のインカムに開店準備が整ったとの連絡が入った。

賢太は三原とともにフロアへ。景品交換のカウンター前に、紺色の蝶ネクタイをつけた女が二人、男が一人。その三人と向かい合うカタチで、休憩室にいたメンバーが並んでいる。つい先程は、何だか暗い雰囲気の人達だと感じたが、全員背筋を伸ばして立っていて、表情も明るく見えた。フロアの照明が、休憩室よりもクリアな輝きだからかもしれない。

「そっちに並んで」

三原の指示で、賢太がメンバーの列に加わると、三原同様、痩せ形で長身の男が一歩、前に出た。賢太は、彼がトップだ、と理解し、姿勢を正した。

男のバッジには【チーフマネージャー 西】と書かれていた。西も、賢太の並ぶ列にいる男達も、特別太った人間はいない。女達も特別ふくよかな印象ではない。見た目に統一感のある人材を採用するルールなのだろうか。

西が今日のイベントについて注意事項を話した後、対お客様用の声出しをして、それぞれ持ち場に散った。

開店してからは、賢太はずっと三原にくっついてフロアを歩き回った。銀色のちっぽけな玉の詰まったプラスチックの箱を、上げたり下げたり。単純な作業ようで、難しい。何しろ玉のひとつひとつに、カネと同じ価値がある。ひとつでも零せば、客の鋭い視線が刺さる。

三原は細かく口を出すというよりは、少し距離をとって見守る、といった指導法。しかしお辞儀の仕方については特別拘りがあるようで、賢太は、ほらまた、と何度も注意を受けた。会釈が癖になっている、と賢太は初めて自覚した。しっかりと下げようと意識しなければ、頭は下がらないものなのだ。

不出来な賢太に対し、新人さん頑張って、と声をかけてくれる客もいた。しかし、頑張ります、ありがとうございます、と答えるだけで、賢太には、本当にありがたいと感じる余裕はなかった。

終礼を終え、お疲れ様でした、明日もよろしくお願いします、と言葉を残し、ロッカールームへ。賢太が一番乗りだった。

――ヤバい……キツイ。こりゃ太らないわ

八時間中、七時間歩き回っていた。休憩時間以外、ずっと、ということ。今日履き始めたばかりのスニーカーが足に合っていないせいで、足全体に痛みがある。賢太は靴を脱ぎ、その場に座り込んだ。皆が土足で歩き回る、毛足の短いカーペットの上。汚れているとわかっていても、腰が持ち上がらない。

――明日も、だよな

時間の経過は速かったように思う。それは賢太の予想通り。しかし疲労感は予想以上で、明日の朝、どれほど回復しているのか見当がつかない。三日連続の早番、一日休み。それをしばらく続けるシフトになっている。早くも憂鬱。簡単な研修でこれならば、本格的な業務についたらどうなるのだろう。

賢太が特大のため息を漏らすと同時、ロッカールームのドアが開いた。

「おっ、お疲れ様」
「お疲れ様です。すみません、今どきます」
「いいよ、大丈夫。俺、そっちだから」

立ち上がろうとした賢太の背後を通り抜けた男は、篠田。賢太はフロアで、何度か言葉を交わしていた。三原の話によると、アルバイトの中で彼が一番の【長老】らしい。

三十ちょっと出たらしき篠田は、前髪をふわりと後ろに流したソフトなヘアスタイル。やせ型で猫背気味。いつも微笑んでいるような顔。全体的に穏やかな雰囲気で、新人が話しかけやすい要素を備えている。

「一条君は電車?」
「あ、いや、徒歩です」
「近いんだ。一人暮らしだよね? えっと実家は、神奈川だ!」
「はい」
「俺も神奈川だよ。すぐそこが県境だから、神奈川出身のヤツいっぱいいるよ。慣れてきたら、みんなで呑みに行こう」
「ありがとうございます。頑張ります」
「まあ、ほどほどにね。張り切って、いきなり腰やっちゃうヤツもいるし、無理せずに。男でも希望すればカウンターに入れるしさ。三原君、ああ見えて優しいから、体がキツイと思ったら、遠慮せずに言ったほうがいいよ」

三原は優しい。賢太にとっては、そこが驚きのポイントだった。しかし、全然そう見えないです、とは言えず、笑って、ありがとうございます、と答えるに留まった。

「家に帰ったら、まず風呂と洗濯だね。じゃないと部屋中タバコ臭くなるよ。フロアは禁煙だけど喫煙者が多いからね、客もスタッフも。吸わない人にとっては結構キツイよね、この匂い」

篠田は休憩室でタバコを吸っていたから、彼の前でキツイと明言するのは気が引けた。

賢太は、自動的に作ってしまった笑顔のまま立ち上がる。ロッカーに半分頭を突っ込むようにして着替えていると、篠田は素早く着替えを済ませ、また明日と言って出て行った。次の誰かがくる前に、賢太もロッカールームを後にした。


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