捨て犬男とノラ猫女:Jun.1
関東の梅雨入りは、例年通りにやってきた。雨が降るのは当然で、降らなければ困る。しかし、傘をさしている意味がないと思わせるほどに激しい降りだと、重苦しい雨雲を憎らしく思ってしまう。
美弥子はしばらく姿を見せない。雨が嫌いなのだろうか。あの細い腕で傘を持ち続けるのは、ひと苦労なのかもしれない。晴れた日に、一緒に食べようと言って、またファストフード店の紙袋と一緒に現われるかもしれない。こないこないと待ちわびるより、いつくるのだろうと待ち焦がれるほうが前向きだと、賢太は自身に言い聞かせながら過ごしていた。
四日連続遅番の最終日。ロッカールームについてすぐ、ずぶ濡れの靴とジーンズを脱ぐ。靴もジーンズも特別高価な品ではない。しかし見事に濡れた上、泥が跳ねて変色している。ただ乾かしただけでは済まなそうだ。
――帰るまでに乾くといいんだけど
賢太はロッカーに置いてある予備の靴下に履き替え、着替えを済ませた。パチンコ店でのアルバイトは、あとひと月もしないうちに四か月目に突入する。このまま大きな問題を起こさずにいれば、その日から緑の蝶ネクタイを付けられる。赤ちゃん卒業だ。
「はよーっス」
「おはよう」
賢太がジーンズをハンガーに干していると、省略型の挨拶をしながら森川がロッカールームに入ってきた。普通にしていても笑っているように見える森川の顔。今は、困ったような笑顔になっている。
「見てよコレ! 電車混んでてさ、体の前に傘ひっつけて持ってたらコレだよ……漏らしたみたいじゃん」
森川のチノパンは、ファスナーから足の付け根にかけて濡れ、変色している。賢太は笑いながら、店のロゴが入ったジャンパーを羽織った。雨に濡れたせいか、エアコンの風が涼し過ぎると感じた。
「先に行くね」
「ういーっス」
森川は、賢太よりも一か月後にやってきた。ここにくる前もパチンコ屋で働いていて、研修担当の三原に初日で太鼓判を押されるほど、仕事のできる男だ。しかし上から目線でものを言ったり、偉そうな態度で指図したりはしない。スモークのかかった休憩室にもすぐに慣れた。クラスにひとりはいる、人気者のような存在だ。
「おはようございます」
休憩室に入り、タイムカードを押す。テーブルには五人がいて、篠田と数少ない女性スタッフの小柳が並んで座り、タバコを吹かしていた。
賢太は自動販売機でペットボトル入りの緑茶を買い、篠田の向かいに座った。静かに煙を吐き出す、頬の引き締まった篠田と、キツめだが整った面立ちで長身の小柳。バーカウンターでまったりとしているカップルのようだと賢太は思った。
「おはようございまーす」
おかっぱ頭の大野やってきて、賢太の隣に座る。小柄な女子。赤いセルフレームの眼鏡をかけていて、モード系のアパレルショップ店員のよう。少し近寄りがたい雰囲気。
大野はスマートフォンを取り出して手早く操作。これ、と言いながら小柳に画面を見せる。
「おっ、いいじゃんこれ」
小柳が良い反応を示すと、大野は篠田にも画面を見せた。篠田も頷きながら笑みになり、画面は賢太の前にやって来た。パチンコ屋の裏手にある、居酒屋のサイト。【飲み放題半額フェア】と、大きく表示がある。
大野はテーブルの上のシフト表をひっぱり、自分の前に置いた。そして淡々と音を放つ。
「大野、小柳、篠田、一条、明日休みの人は参加。着替えた後、現地集合。以上」
「了解しました」
インカムのやりとりになぞらえて、小柳は了承の返事をする。篠田は異議なしといった様子で頷き、賢太もとりあえず頷いた。乾ききっていないジーンズでは足元が冷えそうだと思いながら。
雨のせいかフロアは全体的に客が少なく、コースの端で篠田や森川と私語を楽しむ余裕すらあった。だらだらと喋り続けるわけではなく、すれ違いざまの僅かなやりとりだが、インカム越しでない会話のほうが、やはり楽しい。賢太は濡れたジーンズの事を気にかけていたが、終礼が近づく頃には、四月の歓迎会以来の呑み会が楽しみになっていた。